思いやりのない正義は阿修羅の正義! 



 インド神話の中に、アシュラとインドラという神様がおられます。アシュラは正義の神で、インドラは力の神です。
 アシュラには美しい娘がいて、その美貌は神々の世界で評判になっていました。父親のアシュラは、力の神のインドラに心を寄せていて、自分の娘をインドラに稼がせたいと願っていました。ところが、インドラは力の神であるだけに豪放磊落で愛されるところもある反面、乱暴なところがありました。あるとき、アシュラの娘を見て気に入ったインドラは力でもって彼女を無理やり自分の宮殿に連れ去ったのです。父親のアシュラは当然怒ります。そして、武器をとってインドラに挑みます。しかし、インドラは力の神です。正義の神であるアシュラが、力の神に勝てる訳がありません。戦いはアシュラの敗北に終わります。けれども、それでアシュラの怒りがおさまるはずがありません。娘を奪われたアシュラの怒りは烈しく、なおもアシュラはインドラに戦いを挑むのです。戦いは何度繰り返しても、アシュラの敗北になりますが、にもかかわらず、アシュラは執拗に戦闘を繰り返します.
 その結果・・・インドラは、アシュラを神々の世界である天界から追放してしまったのです。



境内観音堂裏にて

 仏教はこの神話にもとずいて、敗北者のアシュラを「阿修羅」または「修羅」と呼んで魔神にし、勝利者のインドラを「帝釈天」と呼んで護法の神にしました。すなわち、正義の神だったアシュラを魔類にし、インドラを護法の神としました。それが仏教のとらえ方となるのですが、なぜなのかわかりますか?

 この結末に納得できない人は現代においては多いようです。父親としてアシュラが怒るのは一般的にはもっともなことでしょう。対する帝釈天のその行動も道義的にはほめられたものではありませんが、心静かに観るならば、過去の出来事にとらわれいつまでも恨む、みずからの「正義」にこだわりつづけている阿修羅の心を問題とするのです。さらに現代においてはある意味セクハラ?を受けた阿修羅の娘は、その後は幸福な帝釈天の妃になっているのです。・・ にもかかわらず自らの面子にこだわりつづけるアシュラの正義とは、魔類の正義に他ならないというのでしょう。
 帝釈天のエピソードの中にこんな話もあります。珍しく負け戦で、逃げていく帝釈天の軍勢の行く手に、道の上を何万匹ものアリが歩いていました。それを見て、そのアリを助けるために、帝釈天は軍勢を再び元の逃げてきた方に引き返させているのです。逃げている軍隊が又とって返すなど普通はありえない行為です。それができたのは、帝釈天は弱者に対する「おもいやりの心」を示すものでしょう。慈悲心の無い正義には、「力」というものは、踏み潰してこそ、本来の「力」。とか、「力」というものは数または量の多さに現れる。まさに、最大多数の「力」であり、それこそは必然的に、少数の者の犠牲やむを得ぬという考えとなり、正義のためには、少しぐらいの犠牲はやむを得ないとするのが阿修羅の正義です。自己の正義にこだわり相手の正義を受け入れない、そんな正義は魔類の正義となります。仏教はそんな自我なる「正義」は放棄せよと教えているのです。





  下記と同様のメ−ルが何通かありましたのでご紹介します。(掲載は承諾済み)
  仏典を学んでいるわけでもない私がこのようなメールを送ってもよいものかと考えたのですが、客観的にこの仏話を読んでどうしても納得がいかないので、キーを叩かせて頂きました。
 思いやりか゛ないのは阿修羅ではなく、娘の方だと思います。
 彼女はどうして父親の愚行を止めるように夫と父親の仲立ちをしなかったのでしょうか?
 そもそも、この戦いの原因は自分が帝釈天に連れ去られたからであり、 阿修羅の好戦的な性格がもたらした一方的なものでは無いはずです。自分さえ幸福に暮らしていれば、遂には天界を追われる父親などどうでもよいのでしょうか?
 果てしなく戦いを続ける父親の行動が親心であると、考えもしなかったのでしょうか?
 帝釈天にしても、阿修羅の娘を娶ったのであれば阿修羅は彼の舅になります。
 義父への礼儀が欠けてはいませんか?
 いきさつはどうあれ、神ならば神らしくするべきです。
 また、蟻の大群を守ったことを誉めていらっしゃいますが、これもまた、単なる彼の自己満足と思います。
 帝釈天は、自分と共に戦ってやっと生き延びた部下に対する思いやりがないのではないでしょうか。将たるもの、自分一人で戦ができるとは決して考えてはなりません。お偉いさんの命令で従軍し、負け戦で心身共に疲弊している兵士達を蟻の為に再び戦場に帰させるなど、愚行と言うより狂気です。
 蟻とて命がある生き物、踏み潰してよいとは私も思いません。しかし、自己満足の慈悲心のために一緒に戦った仲間を死地に追いやることが、思いやりとは思えません。私は大いに阿修羅に同情します。
 第一、なあなあでは正義は貫けません。正義の無い世の中など、無いほうが良いのではないでしょうか。仏教は日本土着の宗教ではありませんが、こうした考え方はいかにも日本的 な自己中心的で視野が狭く自堕落だと思います。
 私は所詮自分も井の中の蛙、小心者だと理解しています。しかしながら、天皇制の廃止を訴える一方で選挙にも行かない日本人、帝國主義時代を批判し中国、韓国に同情しながら祖国に愛国心を持たない日本人(自分の祖国に誇りを持たない人間は、他民族や異文化に対する侵略や搾取といった行動がどれだけ大変な悪事か、絶対に分らないでしょう)を見るにつけ、日本人の国際感覚の無さを情けなく思います。日本人は、慈悲や寛容と言う言葉を何か勘違いしている様に思えます。
 怒りや制裁を持って正しく人を導くことも必要では無いでしょうか?
 ちょっと話がややこしくなりましたが、読んでいただき有難うございます。


 上記質問に対して要点のみ記述してみます。疑義有れば再問してください。

 実にシンプルで率直な意見と思います。ところで、この本筋はあくまでも原因の所在云々ではなく阿修羅の心の展開です。確かに最初は親心であったにしても、「果てしなく戦いをいどむ行動」を本当の意味での親心とか慈悲心とは説示していないのです。相手の立場などおかまいなしに自己の正義を押し通す、自我なる正義を「慈悲心」とは示さないのです。「慈悲心」とは、すべての生命に対し、わだかまりのない、怨みのない、敵意のない「心」です。
 娘にしても「理(ことわり)」は感じていても、力の神である「帝釈天」(旦那さまでも)でさえ手を焼く状態でしょうから、現実的には阿修羅が娘の言うことをまともに聞き入れるとは思えません。

 蟻の大群を助けるという点についての疑義は当然でしょう。けれども、力の神インドラの自己満足ということであるならば、仏教では「帝釈天」と呼んで護法の神にはしなかったでしょう。
 蟻と人間の命を比較したときには人間の命を優先するのは哲学的一思考としてはわかりますが、仏教で説く「いのち」というのは、蟻の命も人間の命もお米一粒も同等と観る「いのち」です。その「いのちの尊厳」を理解(頭で)していても、正義を主張するあまり寛容を忘れてしまえば被害者の立場に偏して、うしろめたさを忘れた加害者になっていることも考えることもできなくなってしまう。そこには「慈悲心」は消え失せてしまうのです。その心の狭さを問題とするのです。
 正義を貫くための武力の行使が正しかったかどうかは「過去の悲しい数々の歴史」を振り返れば理解できるはず。「正義を貫くため」の武力や聖戦といくら主張しても、加害者ともなる意識もうしろめたさもない正義とは既に正義とは言えず、むしろ、執着という迷いであり独善と観るのです。


 怒りや制裁を持って正しく人を導くことも必要では無いでしょうか・・
 心がゆがんでいると、仲間が楽しそうに話をしているのを見ても、自分の悪口を言っているように思えてくるし、気に入らぬ人の咳払いや笑い声さえも、それを聞いただけで不快に感じるものです。憎いと思えばその仏心が修羅道へ、人の物が欲しいと思えば餓鬼道へと変わります。これを流転(るてん)というのです。
 お釈迦さまの最後の教え「遺教経」には
 『汝等比丘(なんだちびく)もし人あって来たって四肢五体を節々に(バラバラに)切り裂くとも、心をおさめて、いかり怨んではならない。また口を護って悪口を言ってはならない。忍の徳は、持戒苦行も及ぶところではない。人から罵倒されても、その毒をよろこび忍受して、甘露を飲むがごとくせねば、仏の道に入った智慧ある人とは言われない。瞋恚(しんい)[顔や目を怒らせ心も怒ること]の害は諸々の善法を破り、名誉や名声を損ずるものである。功徳をかすめる賊(ぞく)は瞋恚(しんい)より以上のものはない。・・・・』と。
 仏様には、やさしいお顔の観音様や弁天様というだけではなく、お不動様や仁王様、閻魔様という憤怒の相をした仏がおられます。仏さまの憤怒の相とは「一切衆生 悉有仏性」、つまり「だれにでも有る仏性を教示する」為の方便です。「一切衆生 悉有仏性」の「汝の仏性に気付よ!」と慈悲心をもって憤怒の相で教示するのは「仏心」ですが、怒りをもっての正しい制裁というのであれば仏の教えではなくなります。
 世界貿易センタ−ビルの同時多発テロによって、米軍の報復行動が起こされました。テロ行為を否定しその反社会性を憎むのはアメリカばかりではないでしょう。しかし、非人道を憎むあまり、それが逆に非人道にならないように祈るばかりです。個人的にも国家においても意見の相違はありますが、対立の原因となるところの基は、慈悲心を欠如した自己の信の絶対化にあると思います。

 ある日、お釈迦さまは戦を続けているある村をたずねられました。その村の長老は「敵を殺すことは部族を守り国を守ることだから、死後天に昇れる」といいました。それに対して、お釈迦さまは「敵であっても人を殺すのは悪業であり、天に生まれることはない」と説法されたといいます。お釈迦さまは宗派や国や人種を超えたところの永遠の真理を示されていると思います。