『日本の服装』
=平安時代=
 平安時代は、延暦13年(794年)に首都が京都に遷り、唐の制度や政治思想を吸収して、日本での「律令格式」が一応完成した。
 それに伴い服装の制度も完備することとなった。

<時代背景>
 唐の末期、845年に仏教が禁じられた。そして、その後、黄巣の乱をはじめ節度使の乱が続く。
 日本はついに、寛平6年(894年)遣唐使を廃止することにした。
 これをきっかけに、それまで吸収してきた大陸文化を日本人の感性によって消化して、新しい文化を繰り広げることとなった。

【男の装い】
 
礼服…即位など特別なときにしか着ない。⇒だから一時中止⇒しかし継承。
    ぼろぼろに破れながらも新調しないで着続けられた。
 朝服…日本感覚で再構成した。
    装束類、束帯、布袴(ほうこ)、衣冠、直衣(のうし)、狩衣など。
    その他--召具装束、童装束が発達する。

「束帯」---昼装束(ひのしょうぞく)ともいう。その構成が一番基本になる。
     冠、うえのきぬ、はんび、下襲(したがさね)、あこめ、表袴、大口、石帯、魚帯(平緒、太刀)、しとうず、履(重い時靴)、しゃく。
 石帯…革に石をはめた帯で、巡方帯(晴用)と丸とも帯(普通用)がある。
※太刀を帯びるときには、平緒を締めた。冠は、成人男子のシンボルでもあり、髪  を結い冠をかぶせる「加冠』は成人式だった。

「布袴」---束帯の表袴を指貫に変える。裾を紐で括ったもので、足を中にはき込めたりした。

「衣冠」---さらに、下襲と石帯を略し、しゃくを扇に変える。宿直(とのい)装束(殿居装束)ともいう。

「直衣」---烏帽子(冠の時冠直衣)、衣(きぬ)、指貫で、色などの規定がなかった。

「狩衣」---鷹狩り用からでた略装で、身分の低い人のものでもあった。袖を脱いで、袖なし風に着て活動着とすることもあった。
                           
【女の装い】
 唐衣裳(からぎぬも)、うちき、小うちき、細長などがある。

「女房晴装束」---唐衣裳ともいい、五衣ともいう。唐衣、裳、表着、打着(うちぎぬ)、襲うちき(かさねうちき)、単(ひとえ)、下袴と、着重ね桧扇をもつ。

「うちき」---女房の晴装束から唐衣と裳を取ったもの。女の服装の中心である。
※これは、男の家庭着の名称でもあった、「装束」が正装を意味し、特に男の装束が「朝服」という中国系の公服から発達したものに対して、「うちき」はが御簾の奥深く暮らす女性のまた、宮中でも主に私生活に奉仕する人々の中から発達したものである。
 とりわけ、上に着る正装具を「唐衣」すなわち「外来のきもの」というのに対し、「家着」という意味の名称であることからもこの衣服の性格を知ることができる。

「小うちき」---衣を重ねずに中部(なかべ)を入れて仕立てる。唐衣の代わりにもなった。

「小袖」---庶民には従来からの手無し(たなし)や襖が着られ、男は狩襖というこれを括り袴を履くものもあった。
 襖は庶民の間でだんだん発達し、小袖の形をとる、単から綿入まであった。
※この期までに庶民は次第に経済成長をし、公家に負けないような華麗な衣服を着る人さえ現われてきた。

「装い」---化粧は成人するとおしろいをぬり、眉を剃って「ぼうぼう眉」を書き、お歯黒を染めた。
 また、艶やかに香もたきしめた。
 髪は長く垂髪にした。3歳頃まで剃っており、その後成長に従って次第に伸ばして行き、12〜3歳になると髪をそぎ行い、更に伸ばす。
 裾を引いた衣よりなお長いのが美女だった。

※織り---錦の他に固地綾、浮文綾、浮織物、二陪織物(ふたえのおりもの)など日本人の感性に合った柔らかい感覚のものが発達した。