新庄まつり
新庄まつりの起源
山形県新庄市は、新庄藩6万8200石の城下町であり、戸沢氏が、初代藩主政盛から11代正実まで
約250年にわたり領内を治めていました。
1755年、5代正諶(まさのぶ)の時代、冷害による大凶作に見舞われ領内でも餓えや疫病による死者
を数多く出しました。
そこで翌年に正諶は、領民の志気を高め、五穀豊穣を祈願するために城内天満宮の「新祭」を行うよう
に命じました。これが、新庄まつりの起源といわれています。
戊辰戦争では、戦火で焼け野原となったが、直後に復活し、第二次大戦後の昭和21年には、山車
(やたい)が市内に登場しました。

新庄まつりの山車(やたい)
1756年の祭典時では、城下の人々は出し物や飾り物を自由に出して祭りに参加したとのことであるが、
この時以来、町衆は「若連」という組織をつくり、毎年各町内単位に山車(やたい)をつくっています。
山車の数は、平成8年から21台となっているが、社会・経済情勢によって山車の台数はかわっています。
一番古い記録では、1776年の14台を始めとし、また、第二次大戦後の昭和21年は、沖の町の山車のみ
という記録があります。

新庄祭りとは、各町内単位の「若連」という組織が趣向を凝らした山車(やたい)を作り、新庄市内を練り歩く祭りです。
山車には、囃方という伴奏する若連が付き、囃子の曲は、花車大八という侠客が京都祇園祭の囃子にヒントを得て作ったものといわれ、「よせ笛」、「二上がり」、「カッコウ」、「宿渡(すくわたり)」の4曲があります。 .
囃子方の構成は、太鼓が4人、横笛が7~8人、すり鉦が7~8人、三味線が2~3人の二十数人編成であり、囃子の演奏技術は、それぞれの地域の秘伝とされ、口伝によって伝えられています。
新庄祭りの山車パレードは、8月24日の宵祭り、25日の本祭り、26日の後まつりと3日間に
わたって行われます。
25日の本祭りには、神輿渡御行列が新庄城跡を出発し、その後を山車が続いていきます。
山車には、必ず「風流○×△」と名づけられ、花や波の飾り物が添えられている。
「風流・・・」とは、時空を超越するという意味にとられられており、事実をある程度無視してもよい
という申し合わせのようなものとなっています。それゆえ、桜と紅葉したもみじが一緒に飾られて
いたりします。
また、山車の引き手は主に、その町内の子供たちであり「チェレンコヤッサー、ソレ」という大きな掛け
声が入ります。近年では、「チェレコンコヤッサー」のあとに個性的な掛け声を続ける町内が増えてきています。
毎年25日の本祭りに山車のコンクールが行われ優れている山車は、ふるさと歴史センター内及び新庄駅に
1年間展示されます。その他の山車は、祭りが終わると解体され来年に向かって準備が始まります。
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