2003年10月10日 トルコへ
トルコ航空 成田発12:55 イスタンブール行きに乗る為に、前日の9日の寝台特急で上野駅に6:58着、京成スカイライナーを乗り継いで成田に8:43着
余裕を見越したとは言え、待ち合わせ時間までには早過ぎる到着だった。田舎から、海外に行くってのは、色々大変なもんだね。
メンバーが揃って、ゆっくりと昼食を取ったせいか出発時間ぎりぎりに、アナウンスで呼び出される。空港内を猛ダッシュして乗り込み「もっと早く来て下さいね。」の言葉を背に、いざ出発。
トルコと日本は冬7時間の時差だが、シベリア上空を横切り、モスクワから真南に飛行機が降りる為、飛行時間は思ったよりも長かった。
高度を下げた辺りから、厚い雲に覆われ、ふとした切れ間から黒海が見えた。
トルコへの誘い
イスタンブールの朝は、靄に包まれていた。
朝早く、コーランの祈りが流れて来る。ここはイスラムの街なのだ。
ト
ルコの天才建築家ミマル・シナンは、50歳で国の首席建築家になり、以後百歳に至るまで、モスク等の建築や水道橋、都市計画を精力的に手掛けたそうだ。
それは、現代日本の、退職や年金の心配に明け暮れする世代に、大きな希望を与えてくれる話ではないだろうか。
崩壊間際だったアヤソフィアに、バットレスを施したのもシナンの技であった。
トルコへの郷愁の一端は、シナンの建築と幻のイズミックタイルの赤をこの目で確かめたい事と、もう一つはカッパドキアの地底都市に潜り込む事であった。
イスタンブールにて
アジアとヨーロッパの狭間で、幾度も帝国の首都として君臨した歴史を持つイスタンブールには、オリエント急行の終着駅もある。
国全体に散らばる東ローマ帝国の遺跡、旧約聖書の地名や美しい温泉群も、トルコにはあった。
しかし、私には遺跡より生きている街、空気の色、香り、生活の方に興味があり、雑踏の中を歩き回った。
トルコの香りは独特だ。トルコ料理もしかり、何の香りだろう見当も付かない。
←は有名なドネルケバブの店。店の前にはテーブルが置かれ、人々は朝食を楽しんでいた。
←これはパン屋さん。大きなセサミドーナッツが飾られ、香ばしい香りが漂っていた。
街の雑踏に紛れて
イスタンブールは、おびしい数の人種の坩堝であった。
ボスポラス海峡を繋ぐ橋の上も、フェリーや桟橋、埠頭にも、人が溢れかえっている。
釣り人の数も半端ではない。成果もそこそこにあり、それを取り囲むギャラリーの数も多い。
埠頭のすぐそばには、即席の魚屋も店を広げている。
エジプトバザールの前の広場では、青空市場が開かれ、拾って来たのかと思しき物や海賊版、新しい物から古い物、ありとあらゆる物が広げられ、子供達も台の上で売り声を上げていた。
グランドバサール、エジプトバザール共、日曜日には休みになる為、広場が自由な青空市になるのだと言う。でも、土曜日なのに混んでいた。
街中では、ピスタチオが荷車の上で売られている。
焼き栗屋もあったが、日本のように甘く焼くのではなく、剥きやすいように切れ目が入れられ、焼いた物が並べられていた。美味しいので、何度も買う。
巨大モスク
私はイスラム教を知らない。偶像崇拝を否定するこの宗教には、アフガニスタンのバーミヤン大石窟破壊した記憶が新しい。
それは過激な一派の行動であり、トルコで暮らすイスラム教の人達は、寛大で優しい人が多いと聞いていた。
建立当時はキリスト教の寺院だったと言うアヤソフィアは、イスラムの寺院に変わっても、キリストのモザイクを残す懐の深い度量があった。
ブルーモスクは、アヤソフィアと向かい合って建っていた。
モスクに入るには、女性達はスカーフで髪を隠して入らなければならない。
メッカの方角へ祈る人々
トプカプ宮殿の中で
オスマントルコ帝国の象徴のトプカプ宮殿の中へと入る。
これは、表敬の門を通り抜け、チケット売り場で入場券を買って入れる幸福の門。
周りには、放し飼いの犬、猫、灰色の羽をしたカラス、それに「千円、センエン」と話しかけるポストカード売りがたむろしていた。
宮殿の外壁にはフレスコ画や、高価なイズミックタイル、彫金が施され、美しい装飾に満ちていた。
内部、特にハレムの中は、タイルの他、螺鈿(らでん)の扉やステンドグラス、巨大なイタリア製鏡(相当高価だったらしい)が、目映いほどである。
宝物殿には、大粒の宝石がザクザクと、当たり前のように飾られていた。
グランドバザールとエジプトバザール
有名なグランドバザールは迷路のようで楽しかった。店の数はかなりのもので、貴金属や衣料などの品物毎に、ブロック分けされている。
値切る事を忘れないでとの注意事項に、お目当ての土産のタイルを選ぶと、数が増える毎に価格を下げてくれ、店の奥でチャイ(お茶)をご馳走になった。
トルコ絨毯屋のお兄ちゃんは、片言の日本語で話しかけて来る。
骨董屋のブロックで、イズミックタイルを見つけたが、自分の持ち金では買えないだろうと諦めた。値打ちのありそうな物は、結構高かった。
トルコリラは桁が違う。お札の中の0を数えるだけでも大変だ。
トルコの人達は、お札の色を見ただけで価値が判るのだろうが、円陣を組んで桁を数えていたのは、私達日本人だけだったのだろう。
トルコの八百屋
エジプトバザールは、グランドバザールと違い、食料がメインである。
おびただしい香辛料の山や、トルコならではの菓子、キャビヤやカラスミ等の高級食材も安い。
辺りは独特の香りが漂っていて、夕方ともなると沢山の人で賑わっていた。
そこでの生活を知りたければ、市場へ行けと言われるように、珍しい物を期待して向かったが、八百屋の店先では、ハーブが目に付いた位で、野菜は日本と殆ど変わらなかった。
珍しいと言えば、10月なのに黄桃があった事と、洋梨の形をした和梨の味のする梨(あぁ説明辛い)があった。
さすがにオリーブは色取り取りで、大きさも調理法も見事だった。
夜、ワインバーで飲んだ後の締めに、Sarayと言う有名なお菓子屋さんで、デザートを食べる。ここは、タクシム広場のすぐ近くなのだ。
11月には、この付近で自爆テロがあったと聞いて、驚くと同時に、心が痛んだ。
リヒティムパシャジャーミー
ミマル・シナンの設計したモスクのリヒィテムパシャジャーミーは、1階が問屋街の上に建っている。
1階を貸した収益で、このモスクの維持管理が出来るようにと、シナンは考えた。
自分達のモスクと言う意識が高いせいか、とても綺麗に使われていた。ここのタイルは素晴らしい。
大きなイズミックタイルをふんだんに用い、コーナー役物もデザインが凝っている。1枚1枚手描きで、目の届かない所まで覆われている。目を凝らしてみると、実に上手い描き方と、そうでない物も並んであり、職人の腕の違いが見られた。
幻のイズミックタイルの赤とは、シナンの生きていた一時期に現れた色で、現在は近い色が出せるようになったが、塗り方が難しいらしい。薄く塗るとピンク色になり、厚すぎるとひび割れを起こす厄介な色なのだそうだ。
日本の焼き物の世界で柿右衛門の赤が有名だが、それと同じように難しいかったのだと思う。
トルコの色は何色?
トルコ石のイメージからと、モスクのタイルの色から、当然のように青だと思いこんでいたが、実は赤なのだそうだ。
国旗の色も、サッカーのユニフォームも、赤なのだそうだ。
そう言えば、トルコ航空のポイントカラーも赤なんだね。
イズミックタイル
このタイルは、リヒィテムパシャミーの物と、トプカプ宮殿の物。
トルコはチューリップの原産国である。
チューリップや様々な花をモチーフにしたタイルが、最も多く見られた。特にリヒィテムパシャミー一日中見ていても飽きないと思われるほど、種類に富んでいた。綺麗だ。実に綺麗だ!
壁毎に違うデザインのタイルが並ぶ、その美しさをデジカメで写すのだが、フラッシュがタイルに反射して、思うように写せない。
かなりの数を写したのだが、質感といい、透き通るような色合いといい、カメラでは伝える事が出来ないのが残念である。
仕方がないので、入り口の店で、ポストカードとタイルの本を買った。トプカプ宮殿の売店の値段よりも遙かに高いので、勿論値切って買った。
トルコは食料品などは安いが、印刷物は高い。
ここらでちょっとトイレ休憩
有料トイレ
トルコのトイレは、基本的には有料である。
ピンクの建物はドライブインの有料トイレで、下が内部だが、ピンクのバケツは、日本で言うウォシュレットなのだ。
卑下される商売なのだが、ドライブインの売り上げよりもトイレの方が儲かるそうだ。
トプカプ宮殿の中のトイレ
オスマントルコの栄華を誇るトプカプ宮殿内のハレムのトイレ。昔、高貴な方々が使用した物だが、現在は勿論使用禁止である。
ハマム(トルコ式蒸し風呂)も豪華であった。
エフェスの遺跡のトイレ
東ローマ帝国の都市エフェスの共同トイレで、これは男子用だった。ここも立派な社交場で、話をしながら用をたす。スカートのような服装だったから恥ずかしくはなかったらしい。
穴の下は、水が流れるようになっている。
街で見かけた面白い物
パトカーと救急車
トルコの警察官の制服は、大変地味であった。
パトカーも、ちょっと迫力に欠けていた。
写真の白い小さな箱がポリスボックス、黄色の建物は警察署か交番のようだった。
イスラム社会では、十字マークは使えない。三日月のマークの付いた救急車
ホテルの医務室の扉にも、この三日月のマークが付いていた。十字マークも共にあるのは、客層がドイツ人観光客が多い為である。
トルコからは、ドイツに出稼ぎに行く者も多く、又トルコでバカンスを楽しむのは、ドイツ人が圧倒的らしい。トルコとドイツは、密接に繋がっているようだ。
ホテルの前で見かけた結婚式用の生花。
どれもスプーンの形をしていた。
「食べ物に困らないように、幸せにね」っと言う意味なのだろうか。
トルコ中央部
日本の上空から眺める風景は、深い緑の森や豊かな平野が当然だった私の目に、トルコの荒涼たる茶色の大地が迫って来た。トルコ中央部カイセリ空港での光景は、私に少なからずショックを与えた。
果てしなく続く荒れた茶色の大地に、トゲのある草、羊の放牧が主なのだろうか。痩せた土地のカッパドキアでは、鳩の糞まで肥料にしていると言う。
バスでの移動中、「この道路はシルクロードだよ。」の一言に、大感激。夢にまで見たシルクロード、何十キロおきにはオアシスの宿屋、それに地平線が何処までも続く。2時間走っても、ただ平坦な土地に、運転手さんは眠くならないのかなと考えつつ、自分はしっかり睡眠を取る。始めて見る道路標識にも、興味を示す。
物価割には、ガソリン代が高いのに驚く。
ガソリンスタンドに着くと、いきなり洗車してくれる人々がいた。これを彼らは生業にしているのだそうだ。
地方で見かけた面白い物
カッパドキアの奇岩は、上の茶色の部分が硬い岩で、白っぽい部分が柔らかく、長い年月を経て浸食されたものだ。その柔らかい部分を掘って、住宅にしたりホテルにして使っている。
←がカッパドキアで泊まったホテルで、1階は岩をくり抜いて造った居間、縫いぐるみの馬のような椅子が面白かった。
壺のなる木
バスの中からも見えたが、壺を沢山並べた店があった。壺の生産の盛んな街があるらしい。装飾用にも、ゴミ箱様にも、様々な使われ方をされていた。
エフェスの遺跡にあった日除けの傘は、ツルで編んであった。発掘の為に使うのか、観光客用に使うのかは定かではない。
遺物は持ち出し厳禁なのだが、長い間には誰かの台所に、豪華な大理石のまな板が置いてあったりもしたそうだ。
小さな野外劇場、音の響きは良い。
観客席は、目のくらむような角度の急斜面で、登るのに目眩がした。
帰 路
乗り継ぎの為のイズミールの空港にあった軍事施設
そう言えば、カイセリ空港では、滑走路周辺の写真を写そうとして叱られたっけ。ここはイラクと国境を接する不安な土地でもあるのだ。
トルコ航空の機内食。トルコ料理は、世界三大料理と言われているけど、私には合わなかった。宮廷料理にも挑戦したが、誰1人として美味いと言わなかった。
色んな料理があったのに、写す前に食べてしまってた。
イスタンブール空港→関西空港→成田空港と長時間をかけて日本に辿り着いた。
機内で長時間過ごすのは、だんだん辛くなって来た。脚の痛みで一睡も出来なかったのは始めてだ。私はスチュワーデスにはなれないなと思った。
トルコは、生きるのに過酷な条件の所と恵まれた所が同居する国だった。荒涼たる土地もあれば、オリーブやチェリー等の果樹の豊富な土地もある。
綿摘みをしている風景にも出逢った。
セーターを着込まないと寒くていられないトルコ中央部から、今度は半袖でないと暑すぎる土地まで、1日かけて南へ移動する。
南部は、地中海やエーゲ海の穏やかな気候なのだ。
10月なのに、泳いでいる人もいた。
エーゲ海に沈む夕日。その隣にはギリシャの島が見える。
比較する訳ではないが、日本の良さを再認識する旅になった。帰って来て幾らも経たないうちに、イスタンブールでの自爆テロのニュースに驚いている。