鳴尾直軌の「夢を追い続けて」
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彼の「夢」とは何だろう
限りなくバージョンアップする「夢」にむかって突き進む鳴尾直軌を応援する gksoto
(本人の許可を取り作成しております。コピーはご遠慮ください)
 プロフィール
1974年10月5日生まれ 174cm70kg 血液型AB 岩泉町出身
3人兄弟の真ん中。兄の影響でサッカーを始める。
岩泉中から盛岡市立高校、岩手大学教育学部、岩手大学大学院卒業


 
岩泉中2年、進路を考えるとき、大好きなサッカーを続けるには「盛岡の高校に入るのが一番」と考えた彼は猛勉強し、親を説得し佐々木清志監督率いる盛岡市立高校に入学。
だが岩泉ではNO,1の彼も盛岡でのレベルの違いを見せつけられ人一倍猛練習し、レギラーの座を奪い取った。そして2年、3年生と連続全国高校サッカー選手権大会に出場。背番号10をつけたセンターバックとして異色な存在だった。後に佐々木清志監督に聞くと「キック力が一番なのでセンターバックにした。代償として背番号10を指定してきた」とのことである。
当時岩手県高校ナンバー1 MF高橋理やFW黒丸淳一などチームメイトにも恵まれた。

岩手大学に進学してからは、用具の購入費を集めるためのアルバイトとサッカー、そして学業とフル回転。学部が違い部員が揃うことがなかった練習も早朝練習を取り入れ、2度大学選手権に岩手大学を導いた。鳴尾自身、常に東北選抜に選ばれていた。
後に一番嬉しかった事は?の質問に「岩手大学に入学したこと」と言い切るほど充実していた。
試合には教生として教壇に立った岩手大学付属中学の生徒達の黄色い声援が飛んでいた。
ポジションはMF。


平成9年岩手大学卒業当時のサイン
岩手大学卒業後は「東北初の国立大卒のプロサッカー選手」として当時JFLモンテディオ山形に入団。
12試合出場し5得点(ハットトリック1回含む)背番号16 MF

翌年、JFLブランメル仙台(現ベガルタ仙台)との移籍問題がこじれ、JFLソニー仙台に入団。
ソニー仙台にはプロ選手はなく「就労か就学」の規定があり、新設の岩手大学大学院に入学。仙台もしくは転戦先から盛岡へとめまぐるしく移動。
背番号7、MFとしてスタートしたが第7節FWに転向。20試合に出場志13得点。JFL得点ランキング8位となる。
「誰も知らない地に行き自分の力を試してきます」とシーズン終了後ソニー仙台を後にした。

日刊スポーツより

第9節全得点2を入れ、大分1−2で破り2勝目(5/11)

8/24ジャトコ5−0で退ける。この日も2得点
11/2首位フロンターレを2−1破る坊主頭がかわいい
11/30天皇杯アステール青森を2−1で退ける
1999年3月14日 Jリーグ開幕
鳴尾はアルビレックス新潟に移籍し、背番号11をもらいエースストライカーを目指していた。
アルビレックス新潟はJリーグ入りを目指し、前年監督に「赤き血のイレブン」のモデルとなった永井良和氏を迎え、J2開幕には19人解雇し15人の新選手を加入さた。開幕より7連勝し首位に躍り出たが、内情が苦しく、専用グランドも無く土のグランドを借り、時には長靴で練習した選手もいたと聞く。


1999年4月9日 日刊スポーツ裏一面
選手右から4人目が鳴尾
鳴尾はこの年全36試合に出場し8得点。得点ランキング9位となる。豊富な運動力と反則が少なく多くの地元ファンの心を掴み、スター選手となった。


得点を決め、祝福をされる。
酒の飲めない鳴尾に乾杯のしぐさを要求するサウロとセルジオ
アルビ会報より
              

彼が着たユニホーム

ユニホーム全面

新潟当時のサイン
新潟で2年目を迎えた鳴尾は完全にエースストライカーに成長した。1チーム増えたJ2。40試合中36試合に出場し17得点。J2得点ランキング3位となる。1位はエメルソン、2位ウィル、鳴尾は日本人トップの成績を残した。特に小野伸二率いる浦和戦では2回もハットトリックを決め浦和キラーとなった。
また新潟ではテレビコマーシャルに出演するほどの人気であった。

新潟で2年目を迎える鳴尾
コマーシャルに使われたシーン
J2アルビレックス新潟は毎月サポータのために「会報」を発送していた。
(上写真は会報より)
2000年シーズン終了後、J2新潟は1年目4位、2年目7位と後退した永井監督を更迭。
鳴尾はJ1チームへの完全移籍を希望。
チームはエースの残留を希望し海外短期留学など数々の条件を提示したが平行線をたどり、交渉は年を越した。
2001年1月16日に自ら「移籍リスト」に掲載し、J1チームからのオファーを待った。
そしてJ1チーム数クラブからオファーがあったが高額の移籍金が足かせとなり、なかなか進展しない。鳴尾自身苦悩と焦りの日々が続いた。
2月6日ジュビロ磐田と契約し、高額な移籍金を残し新潟を後にした。
鳴尾直軌、彼の「夢」とは何だろう。
少年が「大好きなサッカーをしたい」その思いがプロ選手となり、JFL、J2、そしてJ1と階段を一段ずつ登り、しかも大学、大学院(新潟の2年間は休学)まで卒業した。
彼の肯定的な考え方、前向きな性格は多くの人々を動かし、彼を支えた。