伊勢新聞記事
悔しさを乗り越え・・・植木 大史選手
  「海星の4番になりたい」−。小学校2年生の時、ボーイズリーグの四日市トップエースで野球を始めた植木大史捕手(3年)は、子供の頃の夢をかなえ、最後の夏を「4番打者」として迎える。

 植木選手の自宅は、海星のすぐそば。平成8年の夏、早稲田実業戦でサヨナラ本塁打を放った稲垣正史選手、同11年の選抜大会で3本塁打を残した加藤充弘選手ら「4番打者」にあこがれ、迷わず海星への進学を決めた。
 4番に抜擢されたのは早く、1年の秋の県大会。重圧を感じたまま臨んだ結果は10打数無安打。「悔しい。迷惑を掛けた。」まめがつぶれて出血し、白色のアンダーシャツの袖口が真っ赤になっても素振りを続けた。
 「東海大会で挽回しよう。」そう誓った同大会前の合宿。もともと違和感があった股関節を、突然、歩けないほどの痛みが襲った。原因は、恥骨にできた腫瘍。幸い良性だったものの、同大会は断念、入院と手術を余儀なくされた。

 植木選手は「どん底でした」と振り返る。
 10月半ばに入院。11月に腫瘍を摘出する手術を受け、恥骨に人工骨を埋め込んだ。早く野球がやりたいと、焦る気持ちから人工骨がなじまないまま歩いてしまい、12月には2度目の手術。「野球を辞めようか。でも辞めたくない。」退院までの約3ヶ月間、毎日葛藤を繰り返し、涙した。
 早くチームに合流したくて、翌年2月に松葉杖をつきながらも、練習の手伝いを志願。
 「夏には出すから、体をつくりなさい」と湯浅和也監督の言葉に支えられ、下半身の筋力強化と、股関節を柔らかくするリハビリを5月まで積んだ。優勝した春の県大会はあきらめたが、「みんなが頑張っていたことが励みになった」という。
 昨夏の県大会で公式戦に復帰。再び4番打者として打席に立った。前年の秋とは違い「楽しんでやれた」。
 しかし、鈴鹿戦では九回表、二死三塁で回ってきた打席で空振り三振。その裏に1点差をひっくり返され、まさかのサヨナラ負けを喫した。「自分のせいと思ってはいけないんだろうけど」。あの時打って、1点入れていれば―。今でも悔しさがこみ上げる。

 それから1年。植木選手は「4番は4番目の打者にしかすぎない。長打でなくていい。確実に走者をかえすだけ」と言い切る。子供のころ「華だ」と思っていた4番に対する意識が変わっていた。
 技術的には、昨冬から今春にかけて、後ろの振りが大きかった打撃フォームをコンパクトにした。
 「本塁打を狙うとフォームが崩れるから、いつもセンター返しを心掛けている」が、余裕を持って打つようになった結果、自然と本塁打数も増えている。
 湯浅監督は「予期せぬけがに出遅れたが、今は安定した打力もあり、チャンスで一本打つなど、期待にこたえている」と頼もしげに見守る。
 度重なるけがと悔しさを乗り越え、一回りたくましくなった植木選手。2年間で見つけた、自分なりの「4番打者」像で「意地でも甲子園に行きます」。
平成17年7月13日 伊勢新聞

*この記事は、平成17年7月13日の伊勢新聞に特集記事で掲載されたものです。
開会式でこの記事を担当された伊勢新聞社の方にお会いすることができました。
このサイトの趣旨をお話し、「ぜひサイトで紹介したい」とお願いしたところ、「選手達を応援する目的であれば、どうぞお使いください。」と快く了承してくださいました。この場をお借りして、お礼申し上げます。

 私事ですが…高校3年生の春季県大会。選抜8強の三重高校と津球場で対戦した決勝戦が、私の公式戦初出場の試合でした。しかもスタメン。この試合で3打数2安打。初打席はタイムリースリーベース。
ほとんど出場機会のなかった私は、純白の「公式戦用ユニフォーム」で打席に立つ写真が欲しかったんです。
大会主催の伊勢新聞社へ行き、聞いてみました。
「打席の写真は無いけど、ホームインする写真はあるよ」と、写真を私に手渡し、「夏も頑張ってね。」すごく感激したのを覚えています。高校生だった私は、担当の方のお名前も聞く事が出来ませんでしたが、そのときの感動が、このサイト運営に繋がっているのは間違いありません。今でも津球場隣の伊勢新聞社前を通るたびに、感動を思い出します。

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