薄氷の中での田打ち

水郷のイネ刈り

        水との戦い

  水郷
    
皿のような地形
      蒲原平野は信濃川・阿賀野川によって押し流された土砂の堆積により、
     洪積土層・沖積土層を形成し、日本の諸平野の中でも最も厚いとされた平
     野である。長潟は、亀田郷と呼ばれる水郷の中にある。日本海、信濃川、
     阿賀野川、小阿賀野川に囲まれた概ね四辺形の亀田郷耕地は、中央部に向
     かって低くなり皿のようにくぼみ、その皿の底が鳥屋野潟の水面で、鳥屋
     野潟は標高0メートル、長潟は0.2メートルである。川・堀・沼を水が流れるよう
     に舟が通じる江掘があり、江掘には用排水を耕地へとおすための水門や樋
     管があった。江掘はさらにいくつもの支線堀に分岐して、面潟、浦潟、表
     潟、べら潟、長潟などとよぶ水面に通じていく。
      大正初期になって、水郷では排水機による排水改良がおこなわれるよう
     になった。集落耕地の低位部と水路を堤塘で囲い、輪中耕地の最低位部に
     排水機(ポンプ)を設置した。このポンプは大正末期の大河津分水工事に
     より河川の流れが安定してくると、より効果を強めていった。昭和年代に
     はポンプが電化により能力をさらに高め、輪中排水の進行により、水郷内
     の沼潟の乾田化に拍車をかけた。

 水郷の農業
  田打ち
     イネつくりは田打ちからはじまる。正月(今の2月)20日を過ぎると田に
    おりる支度がはじまる。冷たくて貝殻で足を切っても感じない田の中で、午
    前10時頃から午後3時頃まで田打ちをおこなった。この寒風と薄氷の中の野
    良着姿は半股引、すねあてに藁はんばき、腰みのをまとい、鍬には手づらを
    付ける。半股引だから膝は寒風にさらされる。長潟や鵜ノ子では大正末期に
    は、大河津分水により農業生産がある程度安定し、長股引になったといわれ
    ている。長股引に藁靴(深靴)をはき、囲炉裏に干してかわるがわるはいた
    ようである。また、大正はじめまで除草期の長潟の女子は腰巻だけで田に出
    たもので、田しぶのついた、短い膝のでる腰巻であった。
  ヒル箱
     除草はまさにヒルとの戦いになる。
直径五寸、深さ三寸位の桶に紐をつけ
    て田に浮かべ引いて歩き、桶の中へは塩や石灰、煙草の粉をいれて、半股引
    で出ている脛や膝うえにやたらと襲うヒルをかき取り込んでので殺すのであ
    る。長潟ではヒル箱はヒル缶で、空缶に穴を開け、竹の柄をくくりつけて腰
    に差して歩いた。また、ヒル対策には長股引をはいて足首を藁でくくる形、
    ヒル足袋と称して、木綿のハンバキ様のものである。深田では作業中、水の
    中でそのまま放尿するが、気付くと血の匂いに集まり、1ヶ所に10匹もヒル
    が吸い付いていることがあったという。こうして、田植えから始まり除草を
    最盛期として、秋のイネ刈りまでヒルとの戦いが続けられた。昭和18年頃の
    ザリガニの繁殖によりヒルの数が少なくなったといわれている。
  カンジキ
     稔実が終われば地主は金のかかる排水機はもはや動かさない。耕地の湛水
    は一尺以上ある。そこで、力を入れてイネを刈るので足がのめりこむ。かが
    んでの作業であるから、腰から胸まで濡れる。おそい秋作業には、カンジキ
    を履いて踏み込みを防ぐ。このカンジキを履いても踏み込んでいく軟弱な田
    を「カンジキ切れ田」と称した。ヒル足袋をつけ、その甲あての部分を巻き込
    んでカンジキの緒を足へくくった。カンジキを履いたことのない者は、カン
    ジキにからむ草によろめき、ころんで仕事ができなかった。
     これよりもつらいのが箱カンジキである。竹棒6〜7本を並べ、その上に箱
    をつけたカンジキで、履くのには要領がいる。平衡を失わないように、ころ
    ばないように足を進めなければならない。転べば足が浮き上がって起き上が
    れない、命取りの下駄であった。長潟は、この箱カンジキを使用しないと稲
    作ができない深水田であった。

                          [引用文献:亀田郷土地改良史]
                          [写真:亀田郷土地改良区ホームページ]

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