真田幸村
                                   
  戦国時代の終焉間際、さっそうと現れた戦国最後の武将、真田幸村(信繁)。さてさて、私がこの名前を知ったのはかなり前の事だ。小学校の低学年。見たのはNHKで放送されていた時代劇「真田十勇士」。この時代は人形劇が頻繁に放送されており「新八犬伝」「紅孔雀」「プリンプリン物語」などなど。真田十勇士は真田幸村の家来に忍者猿飛佐助、霧隠才臓ら10人の勇士が活躍する話です。しかし、幸村がまさか実在の人物とは当時は夢にも思いませんでした。六連銭の旗印、これを再び見、そして幸村自身が実在の人物と知ったのはだいぶ後のことです。あれこれ20年もすぎた頃ではなかったでしょうか?「大河ドラマ」は見たり見なかったりで決して大河ファンとは言えない私はやや興味があったというところでしょうか?現代風な志向が強い大河ドラマとは別に水曜に本格的な時代劇を作ろうということになり「真田太平記」というドラマがスタート。だが私はこのドラマの存在は知りませんでした。数年後、私は仕事に忙しく毎日遅くまで残業していました。会社の同僚が会社のテレビを帰り間際につけました。すると「あれ?真田幸村だ」と一言。私の頭の中に子どもの頃見た「真田十勇士」が蘇りました。そのシーンは
  武田家滅亡後、北条に家康に上杉に領土を囲まれている真田家の危機に直面しているシーン。しかも100万石の上杉を何度も真田が破ったというのだ。真田はたったの7万石。北条や徳川も巨大だ。その北条と徳川が真田家上田城、沼田城を約2万人の兵力で攻めようとしている。真田はたったの2千。かつて織田信長が桶狭間で今川の大軍を奇襲作戦で破った事があるが、篭城戦であれば勝つ見込みはまったくなかった。今川2万、織田3千。しかし、不利な篭城戦で真田は2千だ。徳川と戦うため後方から上杉に攻められたらサンドイッチだ。それを避けるため幸村と父昌幸は上杉影勝の居城春日山城に大胆不敵に出向き幸村を人質とする変わり徳川と戦っている間、上田を攻めないで欲しいと頼んだ。すると影勝は人質を拒否して「親子ともども討死にせよ」と語った。その影勝のかっこよさ。影勝は何度も真田に苦渋をなめさせながら徳川との戦を見過ごし、親子に戦わせようというのだ。しかし、この時代は天下をねらう徳川家康と羽柴秀吉が激突した後の話だ。その時は徳川1万五千、羽柴12万の激突でしたが徳川が羽柴軍を打ち負かしている。その徳川相手だ。勝ち目はない。と思っていた。私はこのドラマに見せられた。これは真田太平記がファンのアンコールとして総集編として再放送したものでした。上田に徳川軍、沼田に北条軍。しかし、今まで大河ドラマでは見た事の無い光景に釘付けになる。城門を親切に開き城の内部に徳川軍を誘い込み一斉射撃。城壁を上ろうとした徳川に丸太を落として徳川を撃退。逃げる徳川軍を関止めていた川の水を流しておぼれさせる。何と真田の死傷者は40人。徳川は2千人を数えた。こんなことがあるのか!私の血は踊った。
  羽柴(豊臣)秀吉が関白太政大臣に任ぜられると天下は秀吉のものとなった。そのため幸村は15年も人質となる。秀吉が死んだ後、関ヶ原の戦いとなる。この戦いのため幸村と父昌幸は西軍と組する。幸村の妻は秀吉家臣大谷吉継の娘。幸村兄の信幸は妻が徳川重臣本多忠勝の娘であったため東軍についた。なんと東西、親子、兄弟がわかれてしまうのである。関ヶ原に向かう徳川秀忠軍3万8千は真田の上田城にこだわり攻めてきた。幸村、昌幸親子は秀忠3万8千を上田に釘付けにさせれば西軍は勝つだろうと読んでいた。しかし、真田はたったの3千。しかし、またしても起こった。これは奇跡じゃない!!攻めると見せかけ攻めては引く。真田の術中に翻弄されついに関ヶ原に遅参させた。2度だ。2度も徳川を破った。しかし、当然の事ながら西軍は敗れ幸村、昌幸親子は改易されて九度山に流された。しかも15年。幸村は49年の人生のうち人質15年、配流15年。合計30年だ。もし私がこんな立場だったら30年もこんな事態なら生も根も尽き果てて意欲はなくしていたと思います。しかし、幸村は時節到来を待ち続けました。徳川と豊臣が手切れとなり再び激突する事になったのです。しかし、頼みとする父は他界し、徳川方には兄信幸がいる。自分が豊臣に味方すれば迷惑がかかる。このドラマは幸村がこの先どうなるかなど私は知らない。真田十勇士も子ども過ぎて記憶が薄い。「一人の男がこの世に産まれて死んだ。そんな証を残したい」生まれていつか死ぬのは当たり前だ。だが生きて死んだことを世に残す事は難しい。後で知るが父昌幸は有名であったが幸村の存在はそれまでは無名過ぎるほど無名だったそうです。幸村の名前が後世にかたられたのはこの後があったから。もちろんその時の私はそんな事はまるで知らなかった。幸村は九度山を脱出する決心をする。私はこいつはただ者じゃない。何かをする。熱く血が燃え滾った私はつかさずビデオデッキにテープを入れ録画。しかし、これは後で禍根を残す事となる(これは後で触れる)。
  幸村は嫡子大介をつれて15年ぶりに大阪城に入場する。徳川軍は30万。対する豊臣は浪人の寄せ集めの10万。幸村も浪人の一人だ。幸村は軍儀に大阪城を出て伏見城を攻め落とす作戦を主張するが豊臣秀頼母淀君の反対で篭城戦となった。幸村は大阪城外堀の南に真田丸なる出丸を築き徳川と戦う。心理を読み挑発。真田丸に打ちかけた徳川軍は2万。限界まで引き寄せ一斉射撃。ひるんだと思いきや息子大介が真田丸を出陣して徳川の側面を衝き徳川軍は総崩れとなり撤退。数千の死者を出した。まただ!3度徳川を破った。幸村の名前は天下に鳴り響いたのです。3度とも勝った。しかし、淀君が東軍の大筒に恐れをなし和睦となった。3度とも勝ちながらまたしても敗者。しかし、幸村は豊臣がたが大阪城の堀を埋めるという和睦の条件を飲んだため夜襲を計画。しかし、豊臣家臣によって阻止された。かくして大阪冬の陣は終わった。
  和睦となった幸村はその間、兄、信之(信幸から改名)と対面している。家康から味方に引き入れるよう説得を試みるが幸村は「この真田左衛門佐(さえもんのすけ・幸村の官職名)ごとき男が10年、15年長生きをしたからといってなんになりましょう」と撥ね付けた。幸村は先に書いたように生きる事ではなく名を残す事に没頭した。時代劇を見て「命を惜しむな名こそ惜しめ」とよく聞くがこれを実現したのは何人いるだろう・・・。これぞ武士。
  しかし、また徳川、豊臣手切れとなり大阪夏の陣が起こる。堀を埋められたため出戦となった5万5千の西軍。家康の陣が前進するのをひたすら待ち続ける幸村は一切の攻撃をせず耐える。家康の陣が前進したとき一気に本陣に突入。家康の陣はもろくも崩れた。家康は何度も切腹を覚悟したが家臣にいさめられ戦場を捨てて二里も逃走。幸村は追い回すがここで討死。家康の首にもっとも近づいた男として今も名を残している。

 私は必死にこのビデオを探した。あちこちに問い合わせたが発売されておらず手に入らなかった。そこで九度山を脱出したあとの録画したビデオを何100回も見た。テープは擦り切れてぼろぼろ。みたい。最初から。出来れば総集編ではなく完全版を。しかし、この願いはかなわなかった。後で調べたが最初に放送されたのは1985年。私はこのドラマのビデオを見れないという思いには耐えられませんでした。たくさん本も買った。それでも満足できず車で長野まで走り、沼田城後まで行った。その後、大河ドラマはかかさずみていたがこのドラマを超えられない。あのドラマは見事である。そんな15年をすごしていた。そう言えば九度山に幸村が流されたのも15年。私は情熱を失わなかった。武将で誰が好きかと答えるなら真田幸村と答える。小国で大大名ではない。まずくも浪人幸村。歴史好きに聞くとすぐさま100万石の大名の名を上げるが、そんな裕福な兵力のある大名の名を上げる。死ぬとき「生きていてよかった」または「やりたいことがあるのに」と言って生涯を閉じるドラマもいいが生きていた証を残そうと貧乏浪人が見せた野望を私は忘れはしない。

15年。念願のDVDが発売された。ついに私は完全版を見る事が出来た。一つの夢。失わない事。願い。長く持ち続ける事はなかなか難しい事である。このDVDを手に入れたとき私はぼろぼろの録画したテープを知り合いにかしまくり。DVDは楽しく一生懸命見ています。まったくその思いは消えておらず満足しています。

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