北条時宗
2001年。この大河ドラマがNHKで放送されたときこの人物が誰なのか分からなかった。最初はほとんど見なかったが誰なのか分かりはじめると番組に夢中になった。私は歴史は好きだが大河ドラマをしっかり見たというシリーズはほとんどない。地元の伊達政宗も総集編を見ただけだった。秀吉は好きだったので見ました。しかし、この北条時宗にはまろうとは夢にも思いませんでした。
1200年代の後半。日本は北条氏が鎌倉に幕府を開いていた頃の話しだ。この時代の世界は蒙古皇帝クビライ・カアンに支配されていました。アジアとヨーロッパのほとんどを手に入れていた蒙古皇帝は日本にも支配の手が伸びました。信長にしろ秀吉にしろ光秀にしろ家康にしろ激動の時代ではあったが。誰が天下を取ろうが誰か滅びようが日本という国の消滅は有り得なかった。しかし、この鎌倉時代の蒙古襲来は日本消滅、存亡の危機でした。負ければ日本はなくなっていた。絶対に負けてはならぬ戦いでした。しかしながら蒙古の力は日本の比ではありませんでした。蒙古の人口は当時の世界の総人口の半数の2億。日本は1千万。鎌倉は10万人しかいない。さらには日本の武士の武器は刀と弓矢。クビライの命令で日本にやってきた蒙古軍は900の軍船で4万の兵が対馬に攻め入った。蒙古の攻撃は情け容赦無く、男は一人残らず皆殺し、女子供は蒙古にさらっていくという凄まじき物でした。博多に攻め入った蒙古と激突した鎌倉武士でしたが戦法の違いに手を焼いた。日本の武士は正々堂々と一騎打ち。しかし、蒙古は1人に複数で襲い掛かる集団戦法。武士の心は通用しない。何より恐れたのは武器の違い。弓と刀の日本に対して梃の原理で船から「てつはう」という爆弾を飛ばしてくる。当時の日本は爆弾はおろか火薬も見た事がなかった。破裂する玉、鳴り響く爆発音。こんな武器に日本人は完全にひびってしまう。蒙古の矢は毒矢だ。日本軍はあっという間に敗れ敗走。博多を捨てて逃げてしまうのだ。蒙古は日本の戦力の偵察に来たため博多を焼き払うだけで国に戻っていく。次に蒙古が来るときこそ日本滅亡の危機だったのだ。
この世界の歴史に現れた大帝国の進攻に立ちはだかったのが18歳で幕府執権に就いた北条時宗だったのだ。日本の運命は18歳の時宗にたくされた。しかし、1度目の決戦は惨敗。蒙古から降伏を促す使者が訪れた。時宗はその使者を斬首に処した。日本の戦意を誇示するするためだ。そして博多湾に防塁という石を積み上げ石の壁とした。
蒙古の2度目の襲来は総勢14万。3000にもおよぶ無数の軍船で日本を攻めようとした。先人として博多に到着した蒙古軍は石の砦にはばまれ博多攻略に失敗。爆弾を放てば石の砦にはばまれ、上陸しようとすると弓を射掛けられる。そして蒙古10万の軍が博多に到着したとき、博多は暴風。3000を超す船は多すぎた。風で揺れる船は隣同士の衝突。ついには全部の船が沈んでしまった。実際に蒙古と戦い撃退した数少ない例がこの戦いでした。クビライは内戦が起こったためについに日本占領を諦めたのです。
時宗はもの心ついたときからクビライの名を聞いた。18歳に幕府執権となり日本滅亡の恐怖に人生を過ごささせられた。そして2度の蒙古襲来。自分の人生のすべてを日本のために注いだ時宗は2度目の戦前に重い病となり、死を宣告されていた。この死の恐怖を誰にももらさず日本のために戦った。そして蒙古を撃退してクビライが日本を諦めたとき時宗は死んだ。34歳の若さでした。時宗は誰よりも国を愛し日本を守る事に命を注ぎ、短くも激しく生きた。
今の日本があるのは時宗のこの戦いがあったからだと最近思うこのごろでした。