門傳家の縁起
名字に関して、「名字大全」というような書物に、下記のような記述がありますのでご参考下さい。最後に口伝とありますから、いつか取材を受けたのだと思います。
「宮城県栗原郡一迫町長崎萩生西屋敷に、藤原姓で、門傳重右衛門(十右衛門)昌房を先祖とする門傳家がある。永禄十一年(1568)に織田信長が北伊勢を攻める途次に、洞渓城を落とした。これにより昌房の遠祖は浪人となり、出羽村山郡(山形県・現山形市)柏倉門伝村に住み、門伝日向守と称し、伊達氏の麾下となり、永禄十九年(1591)伊達氏が岩手沢城(現岩出山町)に移った際に帰農した。
日向守の子孫昌房は一迫郷長崎(一迫町)に移住し、同時に昌房の弟も土川屋敷に別家を建てている。享保六年(1721)に没した昌房の跡は、三右衛門ー半右衛門ー半左衛門義実ー源左衛門ー六右衛門昌倫ー半左衛門昌長ー専左衛門昌則ー籐三郎昌兆と継ぎ、昌倫は大肝入役、昌長から昌兆までは、代々肝入役を努めた。さらに、東吾ー十右衛門ー昌兆と継ぎ、東吾は栗原郡長、昌兆は村長を務めた。昌兆の長男は別家し、家は長女の婿養子勝太郎が継いで村長・県議会議長をはじめ多くの公職を努めた。以後、東吾ー仁と継いで現在に至る。(家譜・家伝文書)」
永禄十九年というと、一揆扇動の疑いを晴らすべく秀吉に会うために上洛し、大崎・葛西一揆の鎮圧後に秀吉に領地替えを命ぜられた年で、政宗にとっては政治的に非常に微妙な時でもありました。そのため、政宗の命令によって、山形から辺境の守備のため赴任させられたのかも知れません。これによればわが家は、重右衛門昌房の直系ということになります。これらが本当かどうかわかりませんが、現在でも山形市内に門伝という地名があります。また山形県最上町に柏倉九左右衛門を祖とする柏倉家は、十右衛門の兄ということです。山形から出立の際に、馬具の「鐙(あぶみ)」を兄弟で分け合ったとされ、その鐙らしきものが現存します。検索していたら、山形大学図書館に「柏倉門傳村史」があるということですが、まだ見たことはありません。
門傳家の由緒 (昭和五十三年の家伝書より)
永禄十年美濃全土の平定を志した織田信長の攻撃に、洞渓城も危機に堕ち、城主榊家は幼主を羽前山形に移した。山形市の門傳村である。幼主の供をして柏倉家も移る。後に信長の教証寺及び石山本願寺(現大阪城)攻めにも城主榊氏を擁して、柏倉兄弟も数度に亘り参戦。天正三年遂に蓮如上人降伏、柏倉九左右衛門兄弟も、城主と共に山形の地に帰り、同地の岡に居住、城主榊氏は佛門に入り洞渓山皆龍寺を創建、兄弟共に旧城主に協力し、寺の護持に尽力し、兄は同地に留まる。弟十右衛門(重右衛門昌房)は飯野姓を名乗り陸前長崎村に移る。当地来住の折、要害の三塚を頼り草鞋を脱ぎ、先住の地門傳村を偲び姓を門傳と改め、往時を回顧し懸命の努力をした。寛永三年先祖半兵衛の代に小肝入を勤仕、爾来、子孫肝入或いは大肝入を勤仕し、明治維新を迎う。
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