時代の変遷にもまれて廃校へ 旧上山市立本庄小学校赤山分校
を訪ねる 令和2年11月11日
秋たけなわとなり何か絵を描く素材を求めて上山の郊外をさまよった。
昔参勤交代で表街道となった楢下の宿を訪ねてみた。
楢下の部落の南端を抜けて柏木の部落への道を辿り赤山部落の中を
通っている時に昔ここに分校があったことを思い出した。
そこでさっそく訪れた。が、残念にも朽ちる寸前となっていた。
昔、この学校を教育研究の場として使わせてもらうために訪れたことがあった。
その時は、光にあふれた明るい活気に満ちた学校があった。
しかし、今見ているのは廃校となり朽ちる寸前となっている学校の現状だった。
体育館では元気な子供たちがはしゃぎまわったんだろうなぁ。
この地区は以前は参勤交代の大名が必ずここ楢下の宿場に
泊まり、ここからの急峻な金山峠の登りに備えるのが常であった。
大正・昭和入ってからは鉱山が2ケ所あり結構な人が集まる集落で
あった。
そのためにここ上山の東部から南部にかけての地域は教育が普及していた。
この上山市立本庄小学校赤山分校は2006年(平成18年)に廃校になったが
その流れを調べてみると出発は明治7年にまでさかのぼるようである。
ここ赤山の部落は赤山鉱山の基地としてかつて栄えた。
地区の人たちはそのことを誇りにしている。
この光景は部落の西端から東部を見たところである。
正面中央下に横に伸びている線がここ上山から宮城県の七ヶ宿へと通じる
街道のガードレールである。
この道を登ると金山峠に辿り着くが道は七曲り九曲がりの難路である。
今車で通っても厳しいのだから当時は相当に大変なことだったと思う。
さて、この学校の系譜を調べてみると次のようである。
明治 7年 上山宮脇に宮脇小学校設立
明治20年 宮脇尋常小学校に校名変更
明治25年 宮生(みやおい)小学校と改称
明治28年 赤金分教所が設立。(赤山部落と金山部落の子供を中心にしたのだろう)
明治31年 赤山分校新校舎落成
明治38年 赤山分教所と改称
明治42年 本庄尋常小学校解説。赤山分教所を分離させる。
上山市立本庄小学校赤山分校となる
平成元年(1989年) 休校扱いになる。
平成18年(2006年) 廃校となる。
この一連の学校の歩みをみると時代の流れに対応した地域の様相を反映して学校の
運命が左右されてきたことが分かる。
今回、改めてこの学校の傍に立つとここを巣立っていった多くの人々の声が聞こえて
きそうな気がした。
付記: 文中に赤山部落と金山部落という二つの地名が出てくるがこれはここの鉱山と
密接に関係している。
赤山は部落のすぐそばに鉱山が聳えておりこの鉱山の名称が赤山鉱山である。
歴史は古く徳川時代にまでいくようである。
主な産出物は金、銀、銅、亜鉛であり昭和47年に放棄された
鉱山である。現在も県道脇から眼前に聳えているのが見える。
一般道路のすぐそばにある鉱山である。
金山はやはり赤山部落の南方2キロの地点にある部落である。
近くに鉱山があり金山(かなやま)鉱山と称されている。
この鉱山は徳川旧幕府と密接であったと言われている。徳川家光の時に日光東
照宮の建設に際して伊達藩がここからの産出した金塊を献上したといわれている。
したがってこの二つの地域は往時は豊かな地であったと思われる。
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