戦後の山形市発展の基礎を作った銅町

    キューポラの町盛衰記

  旧山形市の最北部であった銅町の歴史は古く安土桃山時代まで遡る
  ことが出来ます。
  戦後すぐの山形市は貧しい町で食うものにも困るということが当たり前の
  状態でした。今の若い人たちには想像は出来ません。
  ただ機械産業や鋳物産業が独特の技術を駆使して活躍していましたが
  大きな産業ではありませんでした。
  しかし昭和25年からの朝鮮戦争勃発により、特需景気が起き、銅町は
  一転して一大鋳物産業の町と化していったのです。
  これに伴い宮町にあるハッピーミシンが全国的ネームバリューを持つ企業としての
  活躍となり山形市の税金はこの銅町と宮町がほとんど納めていたといわれる
  ほどになり山形市発展の大きな力となったのです。
  また、鋳物による鋳金技術が発展し、多くの美術関係者の来訪も増え交流も
  盛んになった結果日展入選者を多く輩出する芸術の町ともなりました。
  当時の銅町は本当に産業と文化の中心地だったのです。
  しかし近年は銅町のそのような功績もすっかり忘れ去られ、覚えているの
  は当時銅町に住んだ私たち50歳台以上の年齢者のみとなっているのです。
  山形市民よ。決して銅町の果たした役割を忘れてはなりません。
  そのために今回私が現在の銅町を再び思い出していただくために
  復古懐旧という観点から紹介してみます。

 

 これは現在の道路脇に立っているミニ櫓です。これは鋳物を吹くための
 鉄を溶かすキュー ポラをイメージしています。
 次のシーンはそのキューポラの実物です。
 そうです銅町は「キューポラの町」だったのです。

昭和20年代から40年代まではこのようなキューポラが20棟位が
ひしめいていたのです。
夏の暑いときも煙がモクモクと昇り、職人さんたちの元気な叫び声が
こだましていました。
このキューポラの下では1500度以上の熔けた鉄が煮えたぎっていたのです。
みんなみんな夢の中というわけです。

 ちょっと小路に入ってみましょう。まだ昔のやり方で活動している鋳物やさんの
工場(こうばと発音します)が見られます。次の小路を進むと工場が現れてきます。

 

次もある工場です。ここも仕事を丁寧にやっております。



 では作った製品を売る側はどうなっているのかを見てみましょう。

 銅町は売る方の店と作る方の工場とが同居しているのです。
 次のような店舗が5〜6店通りに面して商売しています。


さて、以上簡単に銅町の様子を紹介しましたが昔を知る人にとっては
寂しかったと思います。だって今は工場の殆どは山形市の前明石の
鋳物工業団地の方に移転してしまったのですから。
今の銅町はあたかも蝉の抜け殻状態です。

でも何とか昔の様子が戻って欲しいと願っております。ガンバレ銅町!


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