廃校 旧白鷹町立中山小学校を訪ねる
令和2年7月18日訪問
私には以前から気になっていた学校があった。それはその学校の姿が子供の
頃にラジオから流れていたラジオジラマの主題歌のイメージと重なっていたからだ。
歌には
緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘がなります キンコンカン
メイメイ小ヤギも鳴いてます 風がそよそよ丘の上 黄色いお窓は おいらの家よ
という歌詞が付いていた。
この歌は昭和22年から25年まで続いた菊田一夫のラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の
主題歌であった。
奇しくも作曲は今話題の古関裕而だ。作詞はサトウハチロウ。この人も才人だったなぁ。
私の子供の頃には夢中でラジオを聞いてこの歌を歌ったものだ。
このドラマは戦争孤児の子供たちを収容する一種の孤児院のようなところを舞台に
したもので当時の世相を反映して多くの人の共感を得て大人も子供も夢中になって
ラジオに耳を傾けた。
さらに世の中も素晴らしかった。このドラマを聞いて感動した品川博という人がドラマ
が始まった昭和22年にこのような施設を作ろうと私財をつぎこんで建設してドラマの
場面を実現してしまったのだ。
現在も群馬県の地に創立時の流れを汲んで「鐘の鳴る丘少年の家」として今も運営さ
れている。日本人は素晴らしい。
さて、主題はここからだ。
私がここ山形県白鷹町中山の地を通るたびに白鷹山のふもとの丘の上に素敵な
トンガリ屋根が付いたメルヘンディックなこの学校に気が付いていた。
その姿を見るたびに感動していつか傍に行ってみたいと思いながら通り過ぎていた。
しかしある時に新聞でこの学校が廃校になるという記事を見て驚きと失望感を強く
感じた。「何で日本はこんなにも弱くなったんだ」と慨嘆するば゛かりであった。
その時から時は移ろい今日に至ったが令和2年7月18日に思い切って訪れてみた。
建物はそのままだったが施設は老人介護施設の建物に変わっていた。
お蔭で建物は立派にきれいに整備されておりあのトンガリ屋根も健在であった。
丁度係の方が出てこられたのでちょっとだけ話をしたが何しろコロナウイルスの
騒ぎのさなかなので当然建物にははいれなかった。
外観の写真だけでも紹介をさせていただきたい。
まずは学校のシンボルのトンガリ屋根です。
山形市からこの下の道路を通り長井市の方に向かう時に仰ぎ見るとこの校舎が
見えてきたものだ。
最初は学校とは思えなかったほどだった。
登校する時に子供たちは元気にこの階段を登ったのでしょう。
残念だが現在はこのような施設になっています。
でも校舎の元の形は残り、丁寧に使用されているようでした。
ここ中山の集落です。この地区はこのような小さな部落が数多く分散して存在して
いる。
古い校舎から新しい校舎に変わった時のものでしょう。
校地の南端には100周年の記念式典を平成12年10月15日に
実施した記念碑が立派に屹立していた。
子供たちが記念に埋めたタイムカプセルがありました。
もう掘り起こしたのだろう。
この学校の西側正面には大朝日岳がどんと屹立し、背景には白鷹山が
聳えている。
その大朝日岳を目指して飛び立とうとしている若い鷹の姿を表現している像も
立派に残っている。
以上が現在の旧白鷹町立小学校の姿です。
戦前の時代にはこの地のような山間部にも地域のための学校が創られ
校舎も新しく建て替えられながら最近まで続いてきたのでした。
しかし日本の国力の衰微に連動する形で山間の地からは急速に学校が
無くなっていきました。私にはこのような山間部の学校が存在出来た頃の
日本が一番光っていた時なのだろうと思います。
私はこの学校を卒業して社会に羽ばたいていった若者たちが今、幸せに暮らして
いることを願いながら学校を後にしました。
最後に私がこの学校に愛着を感じたきっかけを作ってくれた子供の頃にラジオ
から聞いていた鐘の鳴る丘の歌詞を紹介して終わります。
それにしてもこの歌も古関裕而氏だったのですね。驚きです。すごいの一言!。
鐘の鳴る丘
菊田一夫作詞、 古関裕而作曲 昭和27年
緑の丘の 赤い屋根
とんがり帽子の 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メイメイ仔山羊も鳴いてます
風がそよそよ 丘の家
黄色いお窓は おいらの家よ
緑の丘の 麦畑
おいらが一人で いる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は 父母(ちちはは)の
元気でいろよと いう声よ
口笛吹いて おいらは元気
とんがり帽子の 時計台
夜になったら 星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらは帰る 屋根の下
父さん母さん いないけど
丘のあの窓 おいらの家よ
おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日に勝る 今日よりも
あしたはもっと 幸せに
みんな仲良く おやすみなさい
以上
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