大石田町次年子の次年子小学校再訪の記
平成23年7月11日快晴
:現在山形県の次年子(じねんご)といえば現在は蕎麦の村と言われるほど
有名になった。
休日となれば宮城県と福島県の車で村が埋まってしまう。
山形の人など割り込めなくなる状況である。
でも蕎麦以外の産業は農業のみある。
昔はこの地には多くの亜炭鉱山があり結構多くの人間が住んでいた。
しかしその鉱山も全て無くなり例に洩れず今は過疎部落となってしまった。
ひたすら蕎麦起こしで頑張っている状況である。
ここは大石田町の管轄であるが教育僻地になっていた。
何しろ名前の由来が子供が生まれてもあまりの大雪のため町に戸籍届が
出せるのは次の年になるからだと言われたくらいである。
私がこの地を知ったのは昭和40年代後半である。
ここにある次年子小学校で教育研究会が開かれたのである。
結構大きな大会で私たちも動員を呼び掛けられこの地に集まった。
しかし当時は道らしい道が無く、うねうねと谷間や山の尾根を越える
砂利道を借りた車に分乗して次年子を目指したが数日前の大豪雨で道が
寸断されており知らない農道に入り込みバックしたりの混乱の中この小学
校に辿り着いた記憶がある。
なぜこの小学校が教育研究会会場に選ばれたかというと当時すでに
過疎に向いつつあった小規模部落の学校で子供たちに教員たちが献身的に
教材開発や地域の特性を生かした人間教育に励んでいた実績がかわれこ
の教育成果を広く世に伝えようということであったと思う。
更にこの教育が実績を残せたのは当時は日本でも珍しかった円形校舎の
せいでもあった。
実は私はこの時新聞で話題になっていた円形校舎を見たくて参加したの
が本音であった。
雨交じりの暗い天候のもと大変な苦労をして高台にあるこの学校に到着して
校舎を見た時の驚きは大変大きかったことを記憶している。
さて、時移りその後蕎麦を食べに次年子を訪れたが学校には時折訪れた
だけであった。
最後に訪れてから10年は経ったなあ。
今回(平成23年7月11日)なんとなくこの円形校舎を訪れてみたくなった。
当時とは全く異なる完全舗装の道路が部落を通じているので気軽に訪れら
れるようになっているので気楽である。
当然学校は廃校となっているのでその後の学校の姿を見たい気持ちも
あった。
学校の正面に立ち眺めた校舎である。
そばに近づいてみる。「ありがとう次年子小学校」の字が目に染みる。
部落からは慕われたのだろうが肝心の子供たちがいなくなったのだ
ろう。
この地は開かれた歴史は古く大同二年(807年)に開かれた事実が
ある。
校舎の中には当時の教育資料がそっくり残っているのが見えた。
三階は体育館として使われ二階が教室であった。
明治6年に大石田町鷹巣学校次年子分校として創立したが
明治11年に次年子小学校となった。
残念なことに平成17年3月31日で閉校となった。
正門にはしっかりと学校名が刻まれていた。
この校舎から見た部落を貫く道である。
先に述べたように休日には他県ナンバーの車で賑わう。
地域にとっては大変ありがたいことである。