僻地の蕎麦屋 地域起こしの主役になる

                                      取材 平成27年4月10日

 山形県の中心部 大石田町の西方の山中に次年子という部落がある。(じねんご)と読むが
 この読みについては次のような一説がある。この地は大変な豪雪の地で冬になると完全に
 平地とは遮断される。そのために真冬に生まれた子の名前を平地にある役場に届けるのは
 次の年になる、それくらいの豪雪のちなのだということからきているといわれている。
 この地が豪雪の地ということは事実である。山形県の人間はみんな知っている。
 それにしても不思議な土地である。下の平野部とは6キロ位しか離れていない。しかも極端な
 高地でもない。ところがここがとんでもない雪のたまり場になるのだ。
 そのためにここの学校は(私の別の僻地の学校シリーズに掲載してある)僻地扱いになっていた。
 もっともその学校も今は廃校になっているが。
 このような地なので特に大きな産業はなかった。山間部の狭いエリアにある農地で農産物を
 作ったり林業で生活するだけであった。
 しかし、ここは寒暖の差が大きいために美味しい蕎麦が採れた。
 そのために昔から蕎麦を来客に提供していた。
 この流れが部落の中に蕎麦屋を開かせることになった。
 私の記憶では昭和42年頃に仕事でここを訪れ蕎麦を食べたことを覚えている。
 この時は道らしい道は無く、一台が通れる細い砂利道を通って部落に到着したものだった。
 さて、平成27年4月10日は珍しく時間が空いたので妻と二人で次年子に行こうとなった。
 途中、フキノトウを採りながらの山菜取りを兼ねながらの行程となった。
 部落はまだ雪があり、当然田や畑は全面雪で覆われていた。これでも例年より少ないとの
 ことだった。

 
 さてそばや「七兵衛」が見えてきた。
 なぜ我々がこの4月の雪のある時に来たかというと5月以降は我々地元の人間は満員で
 入れなくなるからた。
 シーズンになると駐車場には県外ナンバーや大型バスがひしめき合いとても地元民は入
 れなくなる。
 特に宮城ナンバ、福島ナンバー、秋田ナンバーが多い。
 実はこの時期には我々は少し離れたところにある予約制のちっちゃな蕎麦屋に行く。


 さて玄関に付くと入口が高い所にあるのが分かる。
 これは当然雪で入口が埋まらないためだ。この辺は全てこのようになっている。


 店内は昔の田舎やの風情である。
 ただテーブルは無垢材を使った金のかかったものを使用している。

 
 メニューはただ一つ盛り蕎麦のみ。単純だ。しかし、ここに繁盛の秘密がある。

 
 メニューは一つなのだから大勢の人が来ても即早い対応が出来る。
 更に分かるとおり食べ放題なのである。
 ちょうど岩手のわんこ蕎麦の大型版と思えば良い。ただ一杯分は山形市内で食べる蕎麦の1.5倍はある。
 これが食べ放題なので蕎麦好きにはこたえられない。
 少し太めて゛固めの田舎蕎麦である。
 蕎麦が来る前に前菜のようなものが来るがこれも量が多い。また、季節で食材も変わる。
 今回はキクラゲが沢山出てきた。
 次の写真は食べてしまってから気が付いて撮ったのでキクラゲの量は1/3位になっています。最初は更に
 山盛りでした。


 結局私は3杯で十分だった。
 やはり遠くから来る方にとっては腹いっぱいになれることは必要なことと思う。
 はるばる食べに来て高い金を出してちょっぴり食べさせられたのではたまったものでは
 ないだろう。ここのように美味い蕎麦を腹いっぱい食べれる店は本物の店だろうと思う。
 蕎麦は芸術と称してほんの少しの蕎麦を食べさせる店が多いが私には合わない。
 次の写真が私の成果である。


 さて、この店を後にしたら大石田に下る道を行くと良い。
 途中の峠から下を見る光景が多くの画家の描くシーンになっている。
 有名な日本画家の小松均画伯はここ大石田の生まれである。
 そしてこの写真の光景を題材して最上川の流れの変遷を描いた対策は有名だが
 実はその構想はここからの眺めを主にして練られたものなのだ。


 以上のように、蕎麦そのものの味と客扱い、周囲の自然環境等から見て私は山形県内の本物の
 店と判定しています。ぜひ来てみて食べて楽しんでください。

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