戊辰戦争の雄 河井継之助を山峡の地に訪ねる
                                              平成24年6月20日
 前日の19日は台風4号が日本列島を縦断し東北も広く被害を被った。
 幸いにも山形県はあまり大きな被害が無くて済んだ。
 20日の朝は雨が降りそうな空であったが妻の知人が来るとのことでこれ幸いにと車で遠出を
 することにした。
 行先は福島県と新潟県の境界地域にある福島県只見町である。50年前には秘境の地と呼
 ばれていた所である。
 私はここが好きで何回も訪れている。私の癒しの場所である。
 今回はここにある戊辰戦争で長岡藩を率いて戦った河井継之助の記念館を訪ねることにした。
 前に一度行ったときは移築中の大工事のさ中で開いていなかった。残念でならなかった。
 今回改めて訪れることを決意した次第である。
 記念館のある福島県只見町塩沢までは山形市から180キロ位である。朝9時半に出発した。
 山形市ー米沢市ー大峠ー喜多方市ー会津若松市ー柳津町ー金山町ー只見町と進む長い行程
 である。でも私は全行程は暗記している。
 今回訪れて驚いたのは平成11年7月の大洪水の爪痕である。
 あの景色が良く多くの鉄道ファンを生んでいた只見線がまったく不通のままであった。
 私はもう復旧したのだろうと思っていたが現地に行って驚いた。全く復旧はしていなかった。
 そして実は復旧の見通しは全く無いということであった。もうあの只見線の夢のような光景は見
 られなくなってしまうのだろうか。
 今回その辺の状況をも写真に撮ってきたので紹介しながら進めていきます。

 
 最初は、若者たちがふんどし一つの姿で天井に我先に登る奇祭で有名な柳津の福満虚空蔵尊
 の遠景を紹介します。
 日本三大虚空蔵尊の一つです。


 
 この只見側をどんどん上流に上っていきます。すると次第に平成11年7月の大洪水の爪痕が表れて
 きます。
 写真の道路の上まで水が来たとのこと。



 只見線が売り物だった鉄橋がこの有様。


 次は有名なシーンで知られる本名の只見側第六橋梁ですがこれも無残にも崩壊しました。
 ただこのケースは半分人災といわれています。
 というのはダムの異常放水による濁流で流されたからです。
 あまりにも急な増水のためにダム管理側があわてて放水してしまったため一気に大量の濁流が
 鉄橋を襲ってしまったからです。ここも東京電力管轄のはずですが保障問題は片付いてはいない。




 只見側第七橋梁だと思うがこれも無残な状況。
 ここは完全に増水により流された。手前の部分の向こう側は大きくえぐられていた。



 この鉄橋の様子を見ようと上の写真の向こう側の線路の終端まで行ってみた。
 この写真の線路が端でスパッと途切れている。下は濁流、怖かった。
 こりゃ作りなおした方が早いかなと感じた。

 

 線路の現況はまるでどこかの廃線のようである。前途は厳しいと感じる。
 信号機のリレーや配線も全て使えない。これが全線にわたっているんだもの大変だ。


 さて国道252号を迂回路を何回も通りながらようやく只見町あいづ塩沢に着いた。
 まだ道路も完全ではないのだ。

 さて、ようやく目的地に着いた。次が記念館に入った証拠品だ。


 ここが河井継之助記念館の前面だ。ずいぶん立派になっていた。

 ここ塩沢の地で継之助は亡くなった。それがその碑である

 
 戊辰戦争の長岡での戦いで家老として奮戦したのだが河井は膝を銃弾で打ち抜かれ重傷を
 負った。
 リーダーの河井が負傷したのでは意気も上がらず敗走となった。
 只見を目指して継之助を戸板に乗せて会津若松を目指したのだがここの八十里峠の山道は
 大変厳しいところ。今でも車を使っても大変な所だ。
 さて、ようやく只見塩沢まで来て七日間は目明し清吉の家に泊まり次に医師の矢沢宗益宅に
 とどまることとなる。
 ここで傷がひどく5日後に亡くなった。
8月16日であった。
 村人は手厚く弔いをし、矢沢宅では継之助が亡くなった部屋を終焉の場として代々守り続けて
 きた。
 
その部屋がこの河井継之助記念館の中に下の写真のようにそっくり収納されている。
 立派な部屋である。




 この部屋を前にすると無念の気持ちで床に伏した河井の様子が目に浮かぶようである。
 当時千名以上の兵が当地に居たとのことなので恐らくこの部屋の周辺には多くの人間
 が居り河井を心配そうに見守っていたのだろう。


 
 それにしても現在我々が車で八十里峠を越えてもあまりの険しさに恐れをなすのだが、それを
 人を戸板に乗せながらこの険しい山々を乗り越えてこの只見までたどり着いたという事実には
 ただただ驚くだけである。

 
 次の写真は河井継之助の写真とその証明書らしきものであった。


 河井が購入し戦いで使ったガトリング銃である。このような武器を早めに河井は買い付けていた。

 さて、この記念館の隣に耳慣れない名前の記念館があった。
 その名は"山塩資料館"とある。
 そういえばこの辺には塩の付く地名が多い。ここは塩沢だし近くに大塩温泉、塩の岐川もある。
 何か塩に関係がある地域であろうと推測はしていた。
 山塩資料館に入って分かったがここ塩沢の地は実際に塩が採れた所なのであった。
 ここの塩採取法は塩水となって地下から湧いてくる水を蒸留して塩を採る方法であった。
 ただこれに関係する施設や遺跡は全てダム湖の下になってしまったのでこの資料館に資料を
 集めて資料館にしたとのことであった。


内部には精細な塩汲み様子を示すジオラマがあった。良く出来ていた。


 さてここにはもっと居たいのだが帰る時間も気になってきた。後ろ髪を引かれる気持ちで当地を
 離れた。只見線も早く復旧して欲しいと思うのだが何時になるやら心配である。
 今午後3時半だから山形に着くのは7時過ぎになる。気を引き締めて帰らねばならない。

 今日一日の全走行距離は約370キロだった。

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