米坂線は米沢市から新潟県の坂町までの路線であり、全線が山又山の間を縫っていく環境にある。
 目の前に天然色の大パノラマが展開され春夏秋冬の四季を通して観光客を楽しませている。

 その米坂線の丁度峠に当たるところが小国町である。
 この名前の由来は多くの説があるがただ確かに言えることはこの地域が山形側からも新潟側からも
辺鄙な土地であったということである。
 冬の豪雪が一層この傾向に拍車をかけ昔は簡単に人が行き来が出来ない土地であった。
 このようなことからこの地は一種の小いさな国となった状態で人々は生活をしてきた。
 その結果独特の文化が多く残った地域である。特徴が即名前となったと言える。
 この小国に黒沢峠という小さな峠がある。この峠は山形側から新潟側へ抜けるときに越えなければ
ならない峠が13あるが、そのうちの一つが黒沢峠です。

 十三峠という名称は全国に多くあるのでここ米沢・新潟間のルートは越後十三峠と言われるのが
一般的であるらしい。
 この越後十三峠の名前は次のとおりです。
 米沢側から 諏訪峠、宇津峠、大久保峠、才の頭峠、桜峠、黒沢峠、見之淵峠、高鼻峠、
 朴の木峠、萱野峠、大里峠 ここで新潟側に入ることになり 榎木峠、鷹の巣峠 となります。
 ここの米沢側から六番目に位置するのが黒沢峠です。
 これらの峠のほとんどは現在は通行が出来ません。まして車では無理な話です。
 黒沢峠も荒れに荒れていたのですが幸いにも昭和50年に地域の皆さんが黒沢峠の復旧活動を
展開されほぼ元の状態に近い環境に戻してくれました。本当に素晴らしい仕事でした。
 さて、明治11年に新潟側から米沢盆地までこの十三の峠を越えて訪れてくれたのがあの
イザベラバードでした。彼女は1831年に英国ヨークシャーで生まれました。
 その彼女がたった一人の従者を連れてにこのルートを踏破し、その記録集の中で置賜盆地を
 アジアのアルカディア(桃源郷)と呼んでくれた言葉が現代によみがえり、現在県の施策にも反映して
大きな地域興しの原動力になっていることは誰しもが理解していることであります。
 私は過去に何回かこの黒沢峠を訪れていますが、今回は新緑の峠を見てみようと思い
平成十八年五月二十二日の快晴の日に訪れました。
 周囲は新緑です。今日は山菜取りの誘惑には負けないでひたすら峠を目指します。

 さて、米沢から小国に向かい、町に入る前の部落黒沢から南に入り進みます。
 車一台の幅の道路をひたすら30分ほど登るとようやく次の看板が出てきます。
 
 この看板の場所から次のような自然の道に変わります。周囲は素晴らしい新緑です。

 さてここが起点標識です。

 まもなく石畳が出てきます。

 新緑のトンネルになっており、空気もすがすがしく森林浴が楽しめます。
 しかし、こんな石畳をひたすら山中の道に敷き詰めた精神力と使命感には本当に心から
 敬服します。


 石畳の様子です。


 一つ一つの石は不揃いですがしっかりとした状態です。

 さて、いよいよここが峠の頂上です。
 ここまで起点からゆっくりと写真を撮りながらで40分ほどでした。

 この先は市野々の部落へと連なります。今日はここで戻りました。

 
 下りの時に改めて登ってきた道を見ることになります。飯豊の山系が見えます。
 写真の右端が峠道です。



 峠の起点の周囲はイベント広場になり大テントで覆えるようになっています。
 ここで地域興しの行事をやるのだそうです。
 また、峠が地域の支えになってくれています。



  これからも黒沢峠の石畳がしっかりと地面に貼り付き、峠道をいつまでも保護してくれ、
  黒沢峠という名前がいつまでも残ることを願いながら峠に別れを告げました。


  
  
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