柔道の名人 尾形 源治氏の想いで

 現在、この山形に日本で柔道の名人と呼ばれた偉人がいたことを知る人はほとんど
いなくなっている。
  今のうちに氏の業績を振り返ってみることは山形市民として是非やらなければならな
いことであると考えホームページに載せた次第です。
 まず氏の生い立ちをみてみます。
 明治25年9月9日に山形市宮町に生まれました。
 山形中学を明治44年に卒業して京都武道専門学校に入学し大正3年に卒業しました。

 柔道での活躍
 大正12年 大正天皇天覧 試合出場
 昭和4年  天覧試合出場
 昭和5年  全日本柔道選手権大会優勝(文中では選士権大会とも書かれている所あり)
 昭和13年 櫻武会道場設立し山形県柔道連盟顧問に就任
 昭和17年 日本大学皇道学院卒業

 教職として
 京都武道専門学校教授
 大日本武徳会本部教授
 講道館師範 
 三重県警察部師範
 その他要職多数

 著書
 昭和 5年  「道柔神髄」(注 この名前になっています)
 昭和45年  「斃れて止まず」
 昭和49年  「柔道修業七十年の回顧と絵画」

 このような立派な業績の人物が今忘れ去られようとしています。
 私は氏の生まれた町 山形市宮町の住人として是非氏のことを後世に伝えなければ
ならないと考えました。
 
 まず氏の著書 「柔道修業七十年の回顧と絵画」の表紙を紹介します。
 絵は全て氏の作品です。

氏の在りし日の姿です。凛としたただ者ではない雰囲気を漂わせています。

次は氏が本書の奥付に記した書です。


尾形 源治氏のことを知ろうとすれば、氏の著書「柔道修行七十年の回顧と絵画」を
読めば全てが分かります。
しかし本書は絶版になっておりなかなか見る機会はありません。
私は山形市立図書館本館にあるはずだと検討をつけ探していただいたらありました。
ただ普通には貸し出ししない本として扱われ大切に保存してあるので図書館にそれな
りの手続きをすることで見ることが出来ます。

氏の最も大きな業績は全日本柔道選士権大会での優勝でしょう。
(氏の文中でのタイトルは選士権大会となっているが時には選手権大会ともなっている。
 私にはどちらが正しいか分からない)
現在の全日本柔道選手権大会の前身になるのでしょうが当時最も
大きな国内大会でした。
昭和五年十一月 会長講道館館長 嘉納治五郎、会場 明治神宮特設道場で
開催されました。
試合の階級は青年前期、青年後期、成年前期、成年後期と分かれて
おり、氏は三十八歳で成年前期の部に東北北海道代表として出場し見事勝者となりました。
当時も講道館柔道が全盛でありましたが決勝の審判があの三船久藏講道館指南役でした。
決勝での対戦相手は熊本の宇土虎雄でした。観衆は東北勢と九州勢に二分しての
応援となり会場は騒然となったとあります。

尾形の得意技は巴投ですが結局はこれが決め手となり勝者となりました。
ただ当時は時間制限などというものがなかったので延長延長で何と一時間の試合と
なったそうです。

氏の一生は柔道一筋でした。
そして生まれ故郷に柔道錬成の拠点として山形市宮町に櫻武会道場を開いたことは
別項の櫻部会道場紹介の部分を参照してください。
いずれにしてもこれだけの偉人がいたことを我々はもう一度再確認をして認識を
新たにすることが氏の後世に生きる者の責務でありましょう。

さて、それでは今度は氏の画集を観賞しましょう。
私はこの本を読んでいて氏が最も読者に語りかけたいことはむしろ本書にある
画集だったのではないかと思います。
どの絵も昭和の初期の山形市、特に馬見ヶ崎の周囲や市の西部地区等の様子を
克明に表現しています。馬見ヶ崎橋の様子などは私の思い出に残っている姿とまったく
同じです。
本書の価値はこの画集を観賞することで更に増すと感じます。
ぜひご覧下さい。





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