山形市の北東部に位置する里山の一つに大岡山がある。市街地から東側の近くにある里山で市民が毎日見る山である。山形市民からは
昔から鍋山と言われて親しまれてきた。
西のトンガリ山こと富神山と並び親しまれてきた山である。いつも何気なく眺めていたのに何故か登ったことがなかった。これは後で述べるが一つのことが精神的に引っかかっていたことが原因だと自覚している。
しかしいつまでも登らないわけにはいかないと一念発起して登り始めたのが平成19年1月5日であった。この時は暖冬とはいえ1月であったので若干の積雪があった。
この時は快晴で暖かかったために衝動的に山に登ってしまったのだが靴は普通のウォーキングシューズであった。登りは最初は雪が無かったので順調に登ったのだが段々と積雪が現れてきた。更に地面は徐々に雪で覆われてきた。でも戻るのは癪とばかりに登り続けたがやはり無理となってしまった。何とか中腹まで登った。
でもやはり無理だと悟り下山しようとして始めて気がついた。下りの時は滑るのだということである。
とにかく降りれないのである。一歩も歩けない。靴は普通のウォーキングシューズであるからつるつると滑り一歩も歩けなくなった。こりゃ困ったなあ、まさか携帯で助けに来てくれなどと言えない。そこで思いついたのはそんなに滑るのなら靴をスキーにしてしまおうということである。スキーは得意である。これまでも人の滑らない所を滑ってきた。さっそく枯れ木を拾いストックにしてそのまま登山道を滑走した。地面は凍結の上に雪が覆っているのだから快調に滑ってくれた。
登山道は稲妻状になっているのでそのまま滑りコーナーを越えていき止ったところで180度ターンをして又滑るということを繰り返してようゆく登山口に戻れたのであった。
おそらくこの光景を見ている人がいたらあっけにとられたのではないだろうか。
ちなみに
平成19年1月5日の大岡山の姿をお見せしよう。
さていよいよ平成20年12月の話である。
今冬は時々雪が降ったが最近は降っていない。山を見ると積雪は無いようである。
更に山は木々の葉っぱは全て落ちて見通しが良いようである。
ちなみに里山は夏はあまり面白くない。登っても折角の景色が見えないからである。
苦労して頂上にたどり着いても何も見えなかったら何のために登ったのかが分からない。
今回はその点はクリアーしている。よし今日昇ろうと衝動的に決断した。
次の写真は登山口から市街地の方を見た様子です。
とにかく登山口は市街地のすぐ傍なのです。
次は登山口の光景です。
いよいよ登り始めます。
直ぐに次の神社の社が現れます。ここが実質的な登り口であります。
冷たい清水が豊富に溢れています。
ここでおまいりをしてから登りを続けます。
ほぼ40分位で頂上の下部に着きます。
そこは三方からの道の交差点になっていますがそこに人影が見えてきます。
これは山の守りの山姥の像です。登山人の安全をじっと見守ってくれており安心する気持ちになれます。
ここのすぐ右側が頂上です。鍋山という名前からはもっと広いところかな思っていたのですが意外に狭い空間でした。
ではいよいよ頂上からの眺めを紹介しましょう。
頂上から西側の光景です。それ以外は視界が良くありません。
残念ながら西に聳える月山が見えませんでした。
この後は順調に下山をしました。
さてここからが本論なのですが例の里山論です。
この大岡山は典型的な里山の形体をとっています。
前に私がこの山に登るのが苦手な気持ちがあったといったのは子供の頃の体験にある。
この山への登山口にはもう一つ小さな山がある。そしてその山はお墓がびっしりなのである。子供の頃よくこの近くに連れてこられた。ここのお墓がびっしり並んでいる光景が子供に
とっては苦手だったのである。この大岡山に登るには必ずここを通ることになるので心のどこかに大岡山に登るのに積極的になれなかったのだと思う。
その様子を次の写真に示す。
これで分かることと思うが人が亡くなれば魂はまずはこの小さな山で過ごす。そして魂は一周忌の後は後ろの山に登りやがては浄土に向かっていくという思想が良く現れていると思う。私もようやくこの里山大岡山に登ることが出来て安心した気持ちになれたところである。
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