タキタロウの山中にある大鳥鉱山を訪ねる

                                          平成26年9月9日
 平成26年9月9日は晴天のさわやかな日であった。
 これまではぐずついた天気の連続だったので久しぶりに山の中に行きたくなった。
 以前から訪ねたいと思っていた山形県東田川郡朝日村大鳥にある大鳥鉱山を
 訪ねてみた。
 訪ねる先は幻の魚として名が轟いているタキタロウの生息地に近い所である。
 私は30年以上前から何度も大鳥の部落には行っていた。
 又、この大鳥を経由して新潟県の三面部落を経由して荒川へ何度か抜けていた。
 この道は朝日スーパー林道として有名になったが年間通れる日はとても少ない。
 新潟県との境界には鳴海金山の鉱山跡があり、現在はここは鉱山モニュメントとして
 観光スポットになっている。
 ただしここに来る道は前述のとおり不通が多いし、鳴海金山記念館も年中開いて
 いるわけではないので訪れる時は前もって問い合わせてから行った方が良い。

 さて、まず山形市から月山道を経て朝日村へと向かう。
 高速を降りて落合で南の方へと進む。
 道は大鳥川に沿って延々と続く。
 やがて荒沢ダムが見える地点に出る。ここからは八久和ダムにも行ける分岐点の役割も
 している地域である。



 右手に行けば荒沢ダムとなるが今回は直進して大鳥を目指す。
 すぐトンネルが出てくる。このトンネルは完全一車線のトンネルなので向こう側から車が
 来ないことを確認してから進行しなければならない。これを守らないとトンネル内部で
 互いにどちらにも進めなくなるので要注意だ。
 でもこのトンネルもきれいになった。周囲がコンクリートで綺麗に巻かれている。
 昔は暗く、コンクリートで巻かれてなく荒堀り跡が分かる薄気味悪いトンネルだった。

 このような不気味なトンネルが3っつあったはずだが今回来てみると1つしかなくなっていた。
 今はこのトンネルの上部に新しいトンネルを掘っていたからこのような不気味なトンネルも
 まもなく体験出来なくなるのだろう。



 
トンネルを抜けると大鳥川がすぐ側を流れていく。この川のずうっと上流が大鳥だ。


 大鳥の部落の中に入ると急に明るい光景になる。この建物は朝日屋という旅館である。
 実はここからタキタロウで有名になった大鳥池へのルートが始まる。そのための登山者の
 宿所として有名な旅館である。

 
 
 周囲にはタキタロウ会館や広場等が点在しており夏の観光シーズンには多くの人で
 賑わう地域だがそれ以降は全く人の姿が無くなるのが常である。
 上の写真の交差点を向こうに行けば大鳥池へ向かう。
 目的地へはこの交差点を手前の西側に進むことになる。


 
しばらく進むと次の写真のように学校が見えてくる。その後ろの赤茶けたあたりが目的地の
 大鳥鉱山遺構である。
 この部落は寿岡(としおか)という名称である。
 昔はこの辺りは人で一杯であったとのことである。



 寿岡の部落に入ると鉱山の遺構が見えてくる。
 ここは採掘した鉱石を砕き、細かい砂状にして水で洗い鉱石ごとに分離する選鉱場の跡なのである。

 

 詳細に見てみると結構当時の様子が分かる。ここは大量の水で鉱石を選別する装置だろう。
 鉱石はここから更に11キロ奥の山中から索道ケーブルでここまで運んできたのだ。


 太い鉄筋とコンクリートにより相当に頑丈に出来ているが年月には勝てない。破壊が進んでいるのが
 分かる。



 当時の状況を説明するパネルも従事しており立派な歴史公園になっている。

 
 この鉱山は最初は1895年 古川鉱業が鉱山権を獲得して1905年にここから11キロの山中の
 桝形山に坑口と選鉱場や精錬所を作り稼働を始めた。
 奥深い山中に3000名の従業員がいたので家族を含めると1万人の人間が居たという。
 ただここは山形県でも最も雪の多い地域であるから一番の敵は雪だった。
 1918年に大雪崩が発生し150名が亡くなった。これがきっかけで休山となった。
 ここまでが大鳥鉱山としての名称である。
 1937年に大日本鉱業が鉱山を再開した。戦争に使うための資源獲得としての理由が最大の動機
 だったと思う。 ここからは名称が変わり大泉鉱山となった。
 戦後も継続して採掘が続いたが、安い外国からの鉱石輸入や資源の枯渇等により採算が合わなく
 なり、ついに昭和54年3月31日に閉山となった。
 従って閉山時の名称は大泉鉱山であり石碑の銘も「大泉鉱山」となっていた。

 いつもこのような昔の遺跡や遺構にたどり着くと感じるのは昔の日本は元気だったということである。
 どんな山の中に入っても林業や鉱山関係の人たちがいた。山の中で人が生き生きと働いていた。
 それが今の日本を見てみるとそのようなことが全く無くなった。
 山は荒れ、谷は崩れ人の姿を見ることはなくなった。どこに行っても廃村の姿が急増している。
 都会だけが人の住むところになってしまっては人間社会が成り立たなくなるのではないだろうか。
 もう一度都会と地方の正しいあり方が問われていると思う。

 最後に対岸の地から遺構の全体を紹介して終わりとする。
 

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