日本鉄道発展の基礎を作った作並駅を訪れる
平成26年3月4日
平成26年3月4日は晴れの良い天気になった。
仙山線の作並駅で「仙山線の歴史を語る展示会」があるのを知っていたが
何しろ先月は大雪と雪崩で天童市と仙台市を結ぶ国道48号線が長期間
の不通が続きようやく再開したばかりだったので訪れる決断がつかなくていた。
それが今日の青空を見て大丈夫だろうと考え出かけることにした。
山形市を10時半に出発し天童市に入り右折れして48号線で関山峠を越え、
作並駅に向かった。道路はきちんと整備されており安全に通ることが出来た。
次が作並駅の写真です。無人駅ではありません。
次の写真は作並駅のホームで山形方面を見た光景です。
さて次に作並駅が日本鉄道史上で果たした大事な役割とは何か述べてみます。
まず駅構内に次のバネルがありますので見て下さい。。
そうです。ここは日本鉄道が交流電化に踏み切るきっかけになった実験基地駅だったのです。
それまでの鉄道電化は都電なんかで使っていた方式の直流を使用したものでありました。
これは電力発電時は交流であるがこれを整流器を通して直流に変換し架線に通電してパン
タグラフで電車内に取り込んで直流モーターで動力にして電車を駆動していました。
もし交流のまま架線により電車内に取り込めば面倒な交直変換の過程が無くなるわけです。
しかし当時は整流器素子の性能が不十分で実現は困難でした。
そこで国鉄は作並駅を実験基地として交流電化実現のための大プロジェクトを構築しました。
さて、大事な仙山線の歴史を語る「仙山線物語」の主会場はここ作並駅ではありません。
作並駅を山形方面に戻り作並温泉街が出てくるがその一角にあります。
名称は作並 湯の駅「ラ・サンタ」という会場です。
会場は綺麗でお土産やさんもあります。何よりも有難いのは入館料が無料であることでした。
この写真の次の写真からは全て館内に掲示されている資料・写真をつかいました。
さて、国鉄の交流電化事業の基地として作並駅が選ばれた理由は次の3点でした。
@試験に必要な線路勾配と駅間距離を持っていた
A一日の商業運転本数が少なかった
B作並機関区が基地として最適の規模と構造であった
Cこれまで直流による電化は行われていたので架線はそのまま使うことが出来た
当時の実験基地の様子を示す写真があります。この写真は珍しい写真だそうです。
その理由は当時カラー写真はあまり普及していなかったので多くが白黒写真であったためです。
当時の試験運転の様子を次の写真で見れます。機関車はED441型です。
これは交流により駆動される機関車です。
次の写真は今の北仙台駅付近だそうです。
現在の様子からは想像も出来ないですね。
やはり仙山線と言えば名所は熊ヶ根の大鉄橋でしょう。
この鉄橋は川の面からの高さでは日本一となっています。
下からの光景です。現在もこれと同じですから知ってしまうと怖いですね。
さて、ここからが面白い情報です。
展示物には仙山線が開通する前にどこを通すかということで検討した資料が多数ありました。
この中に次の地図がありました。
上の地図には右側の仙台市から左の山形側に赤い三本の線が引かれているのが
分かります。
ということは仙山線が開通するルートは三本あったことを示しています。
一番上部の線は仙台市から愛子、白沢と通り関山峠を越えて神町に抜けるルートです。
真ん中のルートは白沢で分岐して大東岳の下を抜けて山寺、山形市と抜けるほぼ現在の
ルートです。
一番下のルートは現在高速道路で抜けている笹谷峠を抜けて山形市に至るコースです。
結局最終的に真ん中のコースが選ばれたわけです。
ただこのルートは奥羽山脈のどてっ腹を抜けるトンネルを掘る必要がありこの工事が大変
だったようです。
次の図は仙山線の線路の高低差を示しています。
ほぼ高低差は500メートルあります。
特に一番高い部分はトンネルの部分です。トンネルの両出口の地帯が急な谷になっている
ことになり工事の大変さが想像できます。
やはりこのトンネルの完成が仙山線の重要な要素だったことが分かります。
このトンネルは仙山トンネルと呼ばれますが通称の面白山トンネルの方が一般的です。
工事が開始されたのが昭和10年、貫通したのは昭和11年です。完成が昭和12年12
月8日でした。開通当時は日本で三番目の長さでした。
この貫通期間は当時異例とも言える驚異的進行速度であったと言われました。
ただ犠牲者も多く、述べ50万人の作業員で一日の作業量は5メートルだったとのこと。
今考えても信じられない速度です。
結局、工事では6名の方が亡くなられました。昭和12年にトンネルの仙台側に殉職の碑が
建てられました。
ただ仙台側は普通には行けない場所なので今考えると山形側に建てた方が良かったか
なと思う。山形側には面白山駅が入り口の所にあるのだからお参りが容易に出来たろう。
トンネル全長5361メートル、標高差440メートル、85Km走行で通過時間4分と設定されて
います。
トンネルの両側は急峻な谷間で、どちらの入り口側もカーブ、急坂でギリギリ登れる地点
まで高度を稼いだ地形構造が特徴とのことです。
実際に側に行くと分かりますが人跡未踏の地の感がします。特に仙台側は強く感じます。
トンネル入り口の部分の交流電化試験運転時の写真です。
私は特にこのトンネルに深い思いを持っています。
私は昭和16年日立市で生まれました。終戦直前は食糧調達の為母に連れられて
母の実家の山形市銅町との間を何回も往復しました。
いつも満員で立ちっぱなしであったことを思い浮かべます。
ある時列車が山形側に近づいた時急に列車が真っ暗なトンネル内で停車をしました。
大人たちが空襲だなどと騒いでいたのを記憶していますが恐らく米軍が山形の神町や
楯山駅近くの鉄橋を銃撃した時のことなのだろうと後で理解出来ました。
さて、最後になりますが仙山線の歴史を辿ってみると仙山線は山形の地の発展に大きく
寄与したのは事実ですが、それ以上にこの仙山線で実施した交流電化の技術成果が
現在の日本の誇る新幹線実現の基礎になったということを忘れてはなりません。
実際に交流電化試験終了後の10年目に新幹線が開業したのです。
作並駅には当時の交流電化に関わる遺構が多く残っています。
是非訪れていただき日本初の交流電化発祥の現場を確認していただければと思います。
展示会の名称は 交流電化試験60周年・新幹線開業50周年 1954-2014
仙山線物語り
期日は平成26年2月14日〜3月30日まで
会場 作並 湯の駅「ラ・サンタ」
入場料 無料
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