伊達から上杉へ  米沢の舘山城跡を尋ねる

 令和2年10月21日訪問
 天下に上杉家の名声は広まっているが肝心の上杉家が居たお城はどこかという
 話になると誰もが首をかしげる。それくらい上杉家と居城したに違いないお城との
 関係は知られていない。
 前日に白布高湯の宿に泊ったので帰りに小野川経由の道を選んだ。米沢市に
 入る手前に舘山の町があることを思い出し今回は舘山にある舘山城を尋ねて
 みることにした。
 ただ心配な点もあった。以前にその地を尋ねたときには私有地になっている関係で
 入れなかったことがあったからだ。  恐る恐る当地に入っていくと駐車場の案内があった。
 更に広い空き地になっていて自由に車を入れることが出来た。
 以前にここに来たときはお城の事ではなく、ここにある舘山発電所の件できたのだった。
 でも今回は城跡の探訪に集中して訪れてみた。

 山の上にある城の下には広場がある。昔はここに家臣たちの屋敷が並んでいた。


 広場の東側には大樽川が流れていてこの上流にある関部落が支倉常長の生まれた
 所と伝えられている。
   

西に目を向けると発電所が見える。ここが帝人を誘致したときに大正9年に
電力源として建造した大正9年から長く米沢の産業を支えてきたる重要な存在だ。
有効落差は35.34m,常時出力は754KWと小規模だが当時としては画期的な存在
だった。

 

 広場には史跡全域に関する解説ガイドがある。



 車が数台いたので何をしているのかと聞くとこれから城跡の調査なのだということだった。


 邪魔をしないようにと心がけて静かに山道を登っていくことにした。
 

しかし、山道を外れて頂上に行こうとしても下の写真の様相でとても気軽に
 登れる道ではない。
 

途中の木々が途切れた所から米沢市内の光景が望める。


 途中に石垣による土塁らしき物が現れた。ここは綺麗に整備されていた。

 現在は発掘が行われておりあちこちで樹の伐採が行われている。
 ただあまりにも遅すぎた感がする。周囲の木々は大木となっており更に密集している。
 昔の遺構なんかは木の根に浸食されて地面下の形なんかありはしない。
 

 それは次の写真が示している。
 この写真を採っているときに市の関係者がそばに来てあまりここは撮らないでくれと言った。
 その気持ちを理解できるので素直に場を離れた。
 でもやはり木の根が邪魔をして正確な地形取りは無理だろうなという気は残った。


 苦労してここまで掘り出したのだろう。
 
 下山して下の広場に着いてみたらまた応援部隊が来ていた。

 現在日本中で城ブームとなっており興味関心のある人たちが集っているが
 ここ米沢の城だけはそのブームとは無縁だったので私は不思議に思っていた。
 今回現状に来てみて分かったのは絶対的に発掘の時期が遅れてしまったという
 ことだ。


 それにしても天下の米沢の上杉の城がこんな状況とはガッカリした。
 1567年に梵天丸として伊達政宗が生誕し1591年に宮城県大崎市の岩出山に移るまでは
 この城は伊達政宗と共にあったのだ。
 そういう地なのだからもっと大切にしていくべきだろう。
 とかく米沢は上杉家のことは大切にしているが伊達家に対してはそうではない。
 上杉景勝が越後春日山から会津に移封されたときにここの城は直江兼続が城主になり、その時は
 1598年なのだからそれまでは伊達家の歴史が長い。
 1600年の関ヶ原の戦いの時に山形の最上義光と対峙したドラマティックな様相を見つめていたで
 あろう館山城の姿を何時になったら私たちは見ることができるようになるのだろうか。
 なお、詳細な紹介は次の方のホームページ http://www.cafe-dragoon.net/trip/castle/tateyama_castle/index.html  を
 参照すると詳細な部分が分かります。
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