<最上川の詩>

八向楯物語


本合海の下手で、最上川の奔流は真っ直ぐに八向山に激突し、大きく左に迂回しています。
そのために、八向山南面は大きく削りとられて、今は高く白い断崖となっています。
この白い絶壁の中腹に、矢向神社があり、数本の古松が最上川に枝をさしのべています。

さて、この崖の上に、八向楯があります。
楯の跡はそれほど広くありませんが、一の丸、二の丸、三の丸の濠跡が残されており、その背後には「弥蔵泣かせの坂」とか、「八向沢」、「馬坂道」等と呼ばれる急坂があって、本合海の村と連絡しています。
この楯は、最上川を控え、後ろに二重三重の空濠を急坂で取り囲まれた堅牢この上もない、難攻不落の楯でした。


ちょっと分かりにくいと思いますが、壕跡です。
下って上って・・・
ここを見つけた時は、タイムスリップしたような感動を覚えました。

しかし、このように堅固な楯も、ついに落城する時が来ました。

八向楯代々の楯主は、合海志摩守と称し、この地方一帯に勢力を張っていました。
ところが、山形最上氏の勢力が、次第にこの地方にも強まってきて、ついに、八向の楯も攻撃されることとなったのです。
寄せ手の大将は、清水城主清水大蔵です。
彼は八向楯の比類ない堅牢さを知っているだけに、性急に攻めることはなく、十重二十重に取り囲んで、合海勢を水攻めにしました。

一方、合海志摩守は、一族郎党と共に勇ましく戦いましたが、長期に渡る籠城のために、やがて蓄えた飲み水が欠乏してきました。
敵にこのことを悟られてはならないと考えた志摩守は、わざと敵軍の見える所に馬を出させて、その背に米をかけて水の如く見せかけました。
この手で敵を幻惑し、その隙に楯下の沢から水を汲み上げようという作戦だったのです。
この作戦は見事に成功しました。

寄手の将兵は、志摩守の奇略さに舌を巻いて驚きました。
ところが、この白米のところに雀が群がってきて、ついばみ始めました。
大蔵大輔、早速事の真相を見てとり、部下を励まして一斉に攻撃の火蓋を切ったのです。
命の綱ともいうべき飲料水を絶たれた八向楯は、ひとたまりもありませんでした。
かくて、さしもの堅固な八向楯は陥落し、合海氏は滅亡したということです。

ここは、春先がお薦めです。
カタクリが群生しており、また、頂上から対岸、本合海の村や国道47号線など、いつもと違う風景が良く眺められます。

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