<史跡めぐり>

西山愛宕神社

下西山地区入り口より上西山方面へと北へ少し進むと、左側に小さな鳥居が見えてきて、その小高いところにスギの木が林立しているのが見えてきます。
これらのスギは、いずれも幹周りが3〜4mほどあり、その昔、清海という修験者が京都から分祀して祭った愛宕神社への回廊を形づくっています。
神社のご神体は馬に乗った木像で、真夜中に白馬に乗り、白衣姿でおみ坂を上り下りするという言い伝えがあるそうです。

ここでは、この西山愛宕神社の伝説をご紹介します。

十日町の法印、正蔵院はすぐれた法力を持つ人でありました。
この法印の先祖は亀井土佐守といって、名のある関東の武士でした。
たまたま大阪の役に出陣し、とある合戦にて敵の武将を討ち取りました。
その首級を挙げようとして、もったいなくも首もろとも観音像をも斬って落としました。
知らないこととは申せとんでもないことを、と悔やんだ土佐は、一意発心、俗世との縁を断ち、墨染の衣に姿を変え清海と号し、京都愛宕山の愛宕様を奉じて東国に下り、常陸の国に住み着きました。
当時、この国を領していたのは戸澤政盛でしたが、政盛はこのことを聞き清海を召し抱え愛宕を所望しました。
やがて、戸沢は出羽国新庄へ転封となりましたが、清海もこれに従って新庄に下りました。
初めは谷地郷大久保村に住して、愛宕社を奉祀しましたが、万治年間、130歳の長命をもって没しました。
今に残る大久保村の清海壇は、清海の墓所であると言われています。
この後、清海の子孫は、新庄の西山に移り、大久保の愛宕を勧請して西山に祀りました。
御神体は馬に乗った木像であると伝えれています。
丑三つの刻に白馬に乗り、白衣の姿で御み坂を上り下りするのがしばしば拝されるということです。
本来は武の神でありますが、以前は徴兵免れに霊験あらたかな神として、近郷の信仰を集めていたと言うことです。

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