<史跡めぐり>

<新庄城址・最上公園>

新庄城は、新庄藩祖戸澤政盛が築いたもので、寛永2年(1625)の完成と伝えられています。
本丸は東西52間、南北127間、正面奥に天守櫓がそびえ、周囲は堀と土居で囲まれ、三隅に櫓を有する近世的平城でありました。
寛永10年(1636)の火災以来天守櫓は再建されませんでした。
本丸の東側に二の丸・三の丸が設けられ、侍町を形成し、その外側に町人町が置かれました。
新庄城は、234年間、戸沢氏の居城として新庄藩政の中心となりました、明治戊辰戦争に際して、庄内勢に攻められ、市街地もろとも焼失しました。
その後本丸には新庄学校、郡会議事堂などが建てられましたが、現在は戸沢神社、天満神社(寛永5年造営)、護国神社が祀られ、最上公園の名で親しまれています。

○天満神社(県指定建造物)
新庄城址本丸跡の南西隅にある天満神社は、戸沢家の氏神として、旧領秋田県角館時代から尊崇された神社です。
同社の棟札に新庄築城の3年後にあたる寛永5年(1628)に初代藩主政盛が建立したと、また別の棟札に寛永8年(1668)に二代藩主正誠が再興したと記されています。
宝暦6年(1756)の願文に、同年の9月25日に新祭を営んで、領内泰平風雨順時五穀成就諸人快楽を祈ったことが記されており、これが現在の新庄まつりのはじまりであるといわれています。
現在の社殿は、間口2間、奥行1.5間の拝殿と、間口・奥行とも1.5間の本殿によって造られています。
本神社南側の土居とそこに生えているサイカチの木などの植生は、往事の姿を見ることができます。

○戸沢神社 
戸沢神社は、明治26年創建にかかり、翌27年完成しました。
祭神は、戸沢家の始祖衡盛と、藩祖政盛、11代最後の藩主正実を祀っています。
戸沢家系図には衡盛は保元の乱に敗れて斬られた平忠正の子平九郎通正の忘れ遺子で、時めく平家にかくれて成長し、後に木曾義仲に従い、源頼朝に仕え、やがて岩手県に下り、雫石に落ち着き、姓は地名をとって「戸沢」と称したということです。
藩祖政盛は、秋田県角館の城主盛安の子で、長じて徳川家康に従い、関ヶ原の戦の頃は、上杉景勝の挙兵をいち早く報告し、最上義光と共に出兵したのを始め、数々の功を認められて茨城県松岡4万石に封じられて天下の諸侯となり、また鳥居忠政の妹を嫁にとってから幕府の信頼を一層深め、一代譜代に列せられました。
山形の最上氏改易に伴って転封され、6万8千2百石を領して新庄に築城を許され、新庄藩の基を築き、郷土発展の礎を固めました。
正実は、年若くして藩主となり、長じて維新の変動期に際し、勤王の志厚く、終始官軍に属し、小藩ついに落城、城下は戦火に全滅の悲運に遭いました。
明治2年3月27日版籍を奉還し、6月19日新庄藩知事に任命され、越えて4年新条件となり、同年11月山形県に合併され、5年8月命によって正実は東京に移住しました。
旧領民はこの三方を祭神にし、戸沢神社として祀ったのです。
神社創建後は県社に列せられ、毎年8月24日には奉幣使が来たものです。
戊申の役に官軍の旗印として保存されていますが、この旗は靖国神社と当社にしかないと言うことです。
社の左手には正実の顕彰碑が建っています。
当社の祭典は8月24日で、25日の天満宮の祭典と遭わせて新庄まつりとして盛大になっています。

○護国神社
護国神社は戊辰戦争以来の戦死者を祀っています。
この神社は、明治2年、新庄藩主戸沢正実が、前年の戊辰戦争の戦死者56名を祀る神社として、太田の瑞雲院境内に建てたのが始まりということです。
その後、遺族などの希望によって吉川町に移されましたが、同24年、三転して現在地に移されました。

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