<とっておき> 

新庄亀綾織

新庄亀綾織りは、9代藩主戸澤正胤(まさつぐ)が、文政13年(1830)に上州(群馬県)より技術者を招き、藩の特産品として奨励したことに始まります。
その後盛んに生産されるようになり、高度な技術を要する織物として知られるようになりました。

明治になってからは、旧藩士の救済のため授産場で機織りが指導され、家内工業として奨励されましたが、明治末期に再び途絶えてしまいました。大正初期や昭和初期に何度か復興が試みられましたが、実を結ばず、幻の織物となってしまいました。

それから半世紀後の昭和56年、国の「最上モデル定住圏地域特産品の開発調査」の対象産品に選定され、60年に新庄亀綾織伝承協会が発足し、現在も会員が商品の開発と研鑽を積み伝統を受け継いでいます。

1830年(文政13) 新庄藩9代藩主戸澤正胤が上州より技術者を招き、藩の付く産品として奨励する。

1868年(明治元) 戊辰戦争により用具の一切を焼失する。

1870年(明治3) 藩主正実が困窮している旧藩士救済のため、授産場を設け、士族の婦女子集めて機織りをさせる。

1888年(明治21) 資金難のため授産場も続かなくなり閉鎖されたが、農商務省より資金を借り再興。桐生より講師を迎え指導を受ける。

1903年(明治36) 再び閉鎖。個人経営の機業場、家内工業(内職)として続けていた家も県立中学校が創設されるにおよび、養蚕に便利な部屋は下宿に使用され、ついに亀綾織りは途絶える。

1914年(大正3) 大竹スエ氏、電力による織機を取り付け、織物を開始。

1923年(大正15) 業界の不況と、亀綾織りの技術の機械化が困難なためコスト高となり、経営に行き詰まり閉鎖。

1931年(昭和6) 渋江トキノ氏、再興を試みたが実を結ばず。

1946(昭和21) 福井吉之助氏、復興を試みたが実を結ばず。

1981年(昭和56) 国土庁の定住圏構想推進事業である「最上モデル定住圏における地域特産品の開発調査」において、新庄亀綾織が選定され、調査部会活動が開始される。

1982年(昭和57) 山形県工業技術センター置賜試験場に置いて亀綾織りを復元。紗綾型、八ツ橋織など9種類の復元に成功。

1985(昭和60) 新庄亀綾織り伝承協会が発足。

1986(昭和61) 伝承協会の実技学習活動が実を結び亀綾織りの基本「紗綾型」の復元に成功。

2001年(平成13) 新庄駅前通りに亀綾織体験工房「機織り長屋」をオープン。

2005年(平成17) 新庄亀綾織伝承協会発足20周年えお記念して、ゆめりあで記念特別展を開催。


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