<とっておき>

隠明寺凧の般若絵

新庄市に伝わる隠明寺凧は、旧新庄藩士隠明寺勇象氏(1847−1915)が、明治時代の初め、士族の内職として始めました。
隠明寺凧の版木は全部で12点(32面)の絵柄がありますが、最も特色のある絵柄は「般若(はんにゃ)」の絵柄で、隠明寺凧を代表する絵柄です。
この写真は、ゆめりあの交流広場に飾られている巨大な凧で、市制施行50周年記念事業として青年会議所の皆さんが作った物です。
畳24丈分あり、縦7.2m×横5.4mもあります。



この般若は「川口般若」とも呼ばれ、新庄市史別巻で、次のような因縁話が紹介されていました。

昔、新庄藩に川口という侍がいた。
息子は凛々しく成長し、花のように美しい妻を迎えた。
姑は息子にも増して嫁をかわいがり、二人は人もうらやむほどの仲であったが、いつともなく二人の仲は裂け、姑はことごとに嫁に辛く当たるようになった。
嫁は耐えに耐えていたが、姑のいじめはさらに高じ、ついには夜な夜な般若の面をつけて嫁の寝所を襲うようになった。
ある夜、姑はつけている般若の面をはずそうとしたが、はずれない。姑は驚き慌てて力いっぱい引っ張ったがそれでもはずれない。
般若面が顔にのめり込み、顔そのものが鬼の顔になっていたのである。
これを見た嫁は、これはきっと仏の罰に違いない、この上は仏にすがって積みを滅ぼしてしまうよりほかにないとて、姑を誘い、仏間に座り、一心に般若心経を唱えた。
どれほどの時が過ぎたであろうか、気づかぬうちに般若の面はとれて、元のやさしい姑の顔が甦っていた。
二人は元のように仲むつまじく過ごすようになった。



一方、昭和61年の市報では、当時の新庄市文化団体会議議長の笹喜四郎氏が次のように語られており、内容が異なっています。

昔、新庄藩に川口という侍がいた。
禄(ろく)の少ない武士だったが、息子に美しい嫁を迎え、人もうらやむほどの幸せな日を送っていた。
ところがあまり夫婦の仲が良いので、ちょっとしたことから姑が嫁をうらやみ、仲が悪くなった。
姑はことごとく嫁に辛く当たるなり、嫁が身ごもってからはそれが一層ひどくなった。
このため嫁は日毎にやせ衰え、ついには病の床に伏してしまった
。嫁は玉のような男児を産んだが、その命と引き換えるようにこの世を去った。
生まれたばかりの子供を残し、うらみをのんで死んだ嫁の怨霊は幽鬼となり、夜な夜な姑の枕元に現れるようになった。
姑は恐ろしさに自分の罪の深さを知り、嫁の成仏を祈り、毎晩一心に般若心経を唱えるようになった。
その功徳のかいがあって、幽鬼の姿は次第に元の優しい嫁の姿になり、しまいには美しい笑顔を残して消えていった。
残された男の子は、姑の手で健やかに育てられ、立派な侍になったという。



二つのお話しを比べてみると、隠明寺凧の般若の絵柄は、姑が化けた般若か嫁が化けた般若か、ということになるわけですが、皆さんはどう思いますか?
私には、一介の侍が般若の面など持っていたとか、二人が仲むつまじく過ごすというのもちょっとなじめないので、笹さんのお話の方が気に入ってます。
昔話は、本当は結構怖いお話しだったりしますから、恐らくは後半の方のお話ではないかと思うのです。

さて、般若は魔除けと言われ、家内安全にと、珍重されています。

ゆめりあからふるさと歴史センターへ歩いて行く途中、佐々木酒屋さんの看板にも、この隠明寺凧の般若の絵柄が描かれています。

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