<とっておき>

造園家 折下吉延

明治神宮外苑に美しい銀杏並木が植えられているのをご存じの方も多いと思いますが、そこに携わったのが、新庄市縁(ゆかり)の造園家・折下吉延氏というのはご存じでしょうか?
ここでは、折下吉延氏の生涯と、新庄城址・最上公園にまつわるお話をご紹介します。

折下家は、代々新庄藩主戸沢氏の家臣だったということで、吉延は、明治14年10月5日、東京都麻布の戸沢(旧新庄藩主)邸内で生まれました。

麻布中学を卒業後、第一高等学校(現東京大学)に進学すると、洋画の三宅克己画伯の塾で水彩画を習い、風景画や静物画を描いたりと、この学生時代に絵画へ親しんだことが、後に造園設計に大いに役立つことになります。

一高を終えると、東京帝大農科大学農学科に入学し、白井光太郎教授の植物病理学を専攻し、近代の造園の発祥に貢献した原熙助教授から園芸学の講義を学び、造園の道を歩みはじめるきっかけとなります。


東京帝大農学科を卒業後、明治41年4月に宮内省内苑寮園芸技師として勤務し、新宿御苑の管理や花壇の造成手入れに当たります。

明治天皇が崩御された後、政府は明治神宮造園を布告、その実行機関として「明治神宮造園局」が組織され、メンバーには当時の最先端を行く技術者が集められます。
その技師主任に吉延が任命されます。
明治神宮の造営は大規模な工事で、全国から献木を募り、宝物殿の完成を待って内苑の造成工事が完了するのは、大正11年3月のことでした。
吉延は参道の取り付けや外苑の計画に主導的な役割を果たし、宮内省時代に自ら種をまき育てたイチョウもこの並木道に植えられ、今でも東京で最も美しい並木の一つとして人々に親しまれています。

最上公園心字池

大正8年から9年にかけて、第一次世界大戦の影響を受けた日本経済はインフレとなり、神宮造営工事も一時繰り延べされる事態となると、吉延は、この間、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・ドイツなど8カ国をめぐり、先進国の公園の役割を見て回ります。、
大正12年9月1日の関東大震災の後、吉延は帝都復興院技士の兼務を命ぜられ、翌年には復興局建築部公園課長となり、東京・浜町公園、隅田公園、錦糸公園、横浜・山下公園の新設に手腕を発揮しました。

その後、昭和2年、吉延は公園づくりの手腕を買われ、郷里・新庄市の「最上公園心字池」の修景工事を監修し、同5年に完成させています。

現在の最上公園の心字池は、2002年に新庄市で開催されたの全国都市緑化フェアに併せて、改修工事が行われました。


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