雑談1     表紙へ戻る  でんしゃごっこ表紙にもどる


1999年8月18日 ◆日記開始◆

なんの意味もなく、作者がうだうだと書いているページです。
最初は余りにも解説が少ないので作ろうかなと思ったページではありますが、
画像も少なくなりそうだし、もちろんつまらなければ、読まないで飛ばしていって下さい(笑)


1999年8月18日 ◆自己紹介◆

このホームページには自己紹介コーナーがなかった。名乗るほどの者でもないですが、とりあえず、ご挨拶です。

私は昭和41年7月生まれです。
ビートルズが来日した年です。
右は息子ではなく、私の3歳か4歳の頃の写真と思われる。私の写真より重要なのは、一緒に写っているおもちゃで、アクションプラレールという、当時のプラレールの仲間の製品だそうです。親戚からもらって、早速遊んでいるところの写真でしょう。もちろん、とっくの昔に廃棄され、現存していません。残念。

当時の私はプラレールはそんなに持っておらず、赤白のひかり号の複線のセットと、シルバーのニュー電車ぐらいだったと思います。これらは、大探しをしましたが、出てきません。おそらく、Nゲージをはじめた頃、捨ててしまったのでしょう。あの頃は、プラレールを幼児のおもちゃと、軽蔑していましたから。…それでも、今もどこかに眠っているような気がしてしかたがありません、ひかり号とニュー電車。


1999年8月19日 ◆プラレールとの再会◆

プラレールと再会したのは、今から3年前、長男が1歳半の時です。
近くの踏み切りまで電車をよく見に連れていったのですが、その時、
息子が夢中だったのは、電車ではなく、踏み切りだったのです。
かんかんチカチカ光ったり、カラフルな棒が上がったり下がったりが、
子供の目に新鮮に映ったのでしょう。

そこで、なにか踏み切りのおもちゃを買ってあげようと、おもちゃ店に行き、
鉄道関連のおもちゃを色々比べてみた結果、プラレールの「エレクトロ踏み切り」が一番リアルでよくできていたのです。
(エレクトロ踏み切りは、信号器がチカチカ光り、カンカン音もします。)

で、エレクトロ踏み切りを買うことにしたのですが、踏み切りを鳴らすには、踏み切りを通過する物体が必要であります。どうしようかと家族会議をした結果、まだ、電動の車両はこの子には早いという結論に達し、動力もなく、一番安かった、「楽しい中間車セットA」を購入。つまり、一番最初にかったプラレールが、増結用の中間車「楽しい中間車セットA」なのです。ちょっと珍しい最初の1台(3台か?)ではないでしょうか。
(写真:エレクトロ踏み切りと楽しい中間車セットの車両)

 


1999年8月23日 ◆はじめて作ったでんしゃ◆

手作り電車のコーナーにも書きましたが初めての作品は、南紀ということになっています。
しかし、それより前に、作ったでんしゃもあります。つまり、それは牛乳パック製ではない電車です。

ある日、エビオス(胃腸薬)の空き箱を眺めているうちに、この箱の色が、近鉄特急の色に非常に似ていることに気が付きました。子供の電車好きはもう始まっていましたから、よし、このエビオスの空き箱で近鉄特急を作ってやろう!と思い立ったのです。

なんとか、へんちくりんな近鉄特急が出来ました。息子喜びましたが、所詮は紙。
手荒い子供の扱いで一瞬で壊れてしまいました。これでは、イカンと思い、なにか丈夫に作る方法はないかと、無い頭をひねりました。鉄をたたき出すとか、木を彫るとか…うむ、出来るわけないではないか。

その頃、家内がなにかの本で見たらしく、牛乳パックに新聞紙を詰め込んで、それを束ねて踏み台をつくっていました。子供が洗面台に手が届かないからです。
これが、なかなか、しっかりしているではありませんか。
そこで、よし、そんなに丈夫なのなら、これで電車を作ってやろう!と思い立ったわけです。

(写真:近鉄特急の創作意欲をかきたてた「エビオス」のパッケージ)

 


1999年8月29日 ◆ビスタV8(16年ぶりの鉄道写真撮影)◆

オリジナルスタイルの近鉄ビスタカーがそろそろなくなるらしい。登場より20年以上が経過したビスタカーに近年「ビスタEX」への更新作業が行われているが、今年度中には15編成すべて更新作業が完了するというのである。
そこで、このメモリアルとして、「ビスタEX」とオリジナルの重連、それとオリジナル同士の重連運転が行われた。
なんでも、架線に負担がかかるとかの理由でいままで、ビスタカー同士の重連は行われておらず、オリジナル編成を使用した重連は、これが最初で最後となるのである。

思い起こせば、ビスタ二世の引退のときも、3編成つなげて、伝説のV9(巨人軍ではない)運転が行われたではないか。よし!この最初で最後の勇姿を写真に撮ろうではないか!!と、実に16年ぶりぐらいに鉄道写真の撮影を思い立ったのである。
しかし、なにぶん16年ぶりである。鉄道写真撮影の心得などまったく忘れてしまっているのである。
鉄道写真を甘くみていた。

適当に時間を計算して10分前くらいに行ったのが間違いだった。ちゃんとした鉄道写真を撮るにはそれこそ、朝から(少なくともも30分くらい前には)場所に行って構図や、光線を確認したりしなければならなかった。
思っていた場所にいくと、車両が8両おさまらない。それに光線もやや、逆行ぎみである。
これはいかん、まだ10分あるから、よし、あの小高い丘に登って撮ろうと、慌てて車にのり、走り出すといきなり踏み切りが鳴り出し、向こうからやってくるではないか!V8編成…
あわてて、道(農道で車が来ずによかった)に車を止め、急いで撮影。

その結果が下の写真である。ああ、無残…
V8列車はノンストップ運転で、一般の乙特急より、早く来たのである…そんなことも気づかないとは…

とても皆さんに公開できるような写真では、ないのですが、まあ、これでも、最後のオリジナルビスタカー重連運転ということでご勘弁を…


1999年9月8日 ◆客車列車や、旧型ディーゼルカー◆

私が高校に通っている頃は、確かまだ、客車列車が走っていたと思います。ディーゼルカーの列車もキハ20やキハ30・キハ40・キハ45・キハ55等、まさにごった煮編成で走っていました。残念ながら、その後、しばらく鉄道への関心が薄れていました。さらに、10年間位三重から離れていたので、地元の鉄道事情がどうなっているのか、(特にJRはほとんど乗らないので)さっぱりわからない状態でした。

5年くらい前に三重に帰ってきて、まだ、当然のように客車列車いると思っていました。ディーゼルカーもまだ、ごった煮で走っていると思っていました。ですから、九州地区にわずかに残るだけで、普通客車列車がほとんどなくなってしまったという現状には、とても驚いたのです。、

それまでは、またいつか客車列車にコトコト乗って、紀勢本線1周でもしてやろうかなどど、間抜けなことを思っていたのです。旧客は仕方ないとしても、少なくとも、50系で走っているだろうと思っていたのですが…50系はもったいないですね。

ディーゼルカーもキハ58系とキハ40系、あと、軽快気動車だけになっていました。だいたい、キハ58系が普通列車に格下げされて走っていることさえも驚いたのです。

そのキハ58系も、もう、余命わずかと聞きます。

時代は変わったのですねえ。あたりまえといえば、そうですが。

あんなに、たくさんいたのに、どこにいってしまったのだろう…

     

キハ55も大活躍してました。 ちょっとだけ、近代的だったキハ45

タラコ色にされても頑張ったキニ17.これは紀勢本線でなく、四国あたりで撮ったと思うのですが…


 

1999.9.8Last Update copyright (c) 三重電池鉄道