霊厳夜話
 
 
  霊厳夜話 大意弁

 天下泰平の時代に生まれた一族は、乱世の有様を、昔の物語だけ、聞き伝へられ
ていて、世間一般の事の様に、心得ていると言うのは、良くない考へである。
 筆者が若年の頃迄は、乱世に出あった老人も少なからず生存していたので、その
老人の話を、聞いた事がある。
 乱世と言うのは、必ずしも武士に限った事では無い。
 農・工・商の三民を初め、その他出家僧侶の一族迄も、殊の外、迷惑し難儀をして
いたのである。
 その子細を言うと、今時の武士と言うのは、口にする物は、精白米の飯に、味の
良い味噌汁を添えて、おかずをより好みにし、その上に、酒の肴などと言う有様で
ある。
 身には、季節の衣服を着て、冬の夜は掛具を用いて寒気を防ぎ、夏の夜は蚊帳の
中で寝起きを心易くし、昼の間の勤めは、畳の上で奉仕でさえあれば、別に気遣い
する事も無い。
 供番((注釈))使役((注釈))でさえも、番屋に詰めて難儀するなどといって呟き、主人から給る
恩給を、(ただ)()りする分別より他は無い。
 乱世の武士と言うのは、口にする食べ物は、陣中に臼杵(うすきね)と言う物も無ければ、塩の
汁をすすり、勿論、調理したおかずなど、と言ったものは無い。
 野戦の時は勿論の事、例へ陣屋の中に在っても、屋根は雨漏りさへしなければと

あって、脇には笹垣の一重を囲んで、下にはあんじき一枚を敷いて、掛具といった
ものは無い。
 寒陣の時は、肌も冷え切って夜も寝れず、夏の陣の時は、終始(のみ)・蚊に刺され、
時として具足を着ながら夜を明かし、その上、他に着替えも無く、身命を塵芥(じんがい)
様に思い、家を離れ妻子を忘れて、軍陣に月日を送る辛労というのは、如何なもの
であるかと(まきま)へるのが、道理である。
 次に、農人百姓達も、戦国の時は、軍役の追っ立て役など、と言う事は、頻繁に
当ったので、農業を勤める(いとま)も無く、その上毎度の戦場で、足軽・長柄・旗持など
その他、雑人の一族は敵のために討ち果てた。
 その跡継ぎが無くては、思い通りにならないとは言へ、乱世には下人奉公をする
浪人者といっても稀なので、大方は、知行所の村々へ割って入り、百姓達の中で、
手足も健やかな者達を、理不尽(りふじん)にも連れ出して、軍場の供に連れて行った後でも、

親・妻子の(なげき)の程を、思いやるのである。
 1590年(天正18年)の小田原の陣以後、權現様が関東に御入国の時、里村
の百姓達は目も当てられぬ有様で、その所の名主・長・百姓であっても家内に床を
張り畳を敷いた家は、一軒も無く、男女共身には、木綿の綿入れというものを着て
縄帯を締め、藁で髪を束ねたという有様であった。
 その時代の老人が、物語ったのを筆者が聞いたのである。
 ところが今時の、百姓達の家屋というのは、大方は、床を張り、畳を敷き詰めて
いて、土間には、ねこざ・(わら)(こも)などを敷いた百姓屋というのは、稀で有った。
 衣類は、男女共に晴れ着・普段着の区別をして、髪形には元結(もとゆい)を巻立て(びん)には
油を塗った様であった。
 その村の名主・長・百姓と呼ばれた者の中には、遂に(くわ)(かま)、手に取った事を
覚へていない者が数多くいたのは、(ひとえ)に御治世が続き、(おだや)かになった事である。
 細工人について、乱世では、武具・兵具・馬具などの細工人は、相応に、渡世し、
その他、家作に掛わり合った諸職人を初め、少しではあるがぜいたく風の物を作り
覚へて、営みとした。
 他の細工人は渡世の方法が無く、大方は、出入していた武家方の扶持人となって、
暮らしを立てるしか方法が無かった。
 しかし、御治世が続き豊な時代となれば、上層の方は勿論のこと、末々の軽い者
達迄が、相応にぜいたく物を好み、物好き立ちをするようになった。
  これについては、常々、諸職人も、家業の(いとま)もなく渡世を快くしたというのも、
御治世の故である。商売人はというと、猶更(なおさら)、乱世には迷惑した。
 その子細は、世上が静かな時と違い、物騒な時には、他国に掛けての商売も思う
ようにならないし、自国の売買も思う様にならない。
 その上、時代につれて、盗賊・押込みなどをするいたずら者も多くいたので一向に
元手も無く、貧窮(ひんきゅう)な町人達は、そのままであった。
  更に、少なくても手前、有徳な町人は所持した財宝の置所を気遣い、それについ
ては、各自の身持迄も、方法が無い様であった。
 ところが、御治世の町人というのは、例へ細元手で裏屋((注釈))背戸屋((注釈))にその日暮らし
をする町人であっても、大家へ店賃を出し、公儀の御法度さえ守れば何んの気遣い
もなく、寝起きを心易く渡世をした。
 ましてや、手前さえよい町人は、金銀の手廻りを借し(ふや)しの事に、世話をやき、
又は、貯えを減らさない様に考えをめぐらした。
  他には、何の苦労もなく心任せに寝起きして、食べたい物を食べ、呑みたいものを
呑み、衣類の事も心に任せ屋敷も広々ときれいに住居し、男女でさえ召使に何一つ
手違いもなく、事の欠く事もないのであれば、無病息才で長寿を願うより他に無い
様な、一族も多くいたが、これすべて御治世に生まれあっての故である。
 その他、出家僧侶を初め、種々の遊民達は、四民の安危((注釈))に従って渡世するのであ
れば、猶更(なおさら)、御治世なくては身の安堵もない。

 御治世というのに於いては、数々の、物事の様子が有る事だ。
 子細をいうと、大将・源頼朝卿に於いて、武家が初めて、天下の権を執られて
以後、鎌倉将軍家の代々、北条時政が子孫・高時入道迄九代の間、執権職を保って、
京都には、両六波羅((注釈))という役所を置き、天下の政務を執行したけれど、日本国中が
静かに治ったというのでは無い。
 その後、足利尊氏卿子息・義詮(よしあきら)の両代も大方は、御治世の様であったけれど、
西国には宮方の残党、関東には新田家の氏族などが残っていたので、全体に静かで
なく、方々で少しずつの騒動が起こった。
 三代目・(よし)(みつ)将軍の代になって、ようやく世上も穏かに治った様になったので、
公方家の礼法・儀式なども、伊勢・小笠原などの家々へ命じ、古風の鎌倉様式を
増減して、公方の一通りを再興された。
  その他、将軍家の格式なども保たれたので、如何にして武門の繁栄・平穏も限り
が無い様に、諸人が思いの外理由も無く、戦国に及んでは世上が穏かにはなら無い。
 元祖・尊氏公から、将軍義輝滅亡迄の年数を考えれば、百六十年余りになるけれ
ど、その内、二・三十年の間は、引続いて、全く平穏な世は無く、義満将軍以後は、
次第に威光が衰え、公方といった名前だけの様であった。
 足利家滅亡の後、織田信長卿が(ようや)く天下の権を執った様であるけれど、少しずつ
上方筋十五・六ヶ国が手に入ったという迄で、家人明智光秀のために殺された。
 その跡に、羽柴筑前守秀吉が、逆臣の明智を追討して、その後、自立の功を立て、
次第に、天下を握る勢いが有った。
 しかし、身分の低い家に生まれながら征夷大将軍の号を身に受けたが、由緒正しい
諸国の諸大名の徳を仰ぎ慕う事を、如何様な考えで、武門の交りを離れ、公家に列
し、関白職に駆け上がった。
  宮中の御威光を笠に着て、天下の権を執り1590年(天正18年)以後、日本
国中統一の大功を立てたけれど、程なく病気を受けて、山城国伏見の城中で遂に
死去なされた。
  その以前、さすがわ、身分の低い家から生まれて、大いなる功を立てた器量が有
って、秀吉公は二度迄も、權現様を病床近く招いた。
  「我は、この度の病気全快の程は、(おぼ)(つか)()いので、秀頼が未だ幼年の事でも有り、
その上、無事に成長しても、その人となりの程は予測しにくい。
  天下の政道と言うのは、大切な事なので我の死後、天下の政務はそなたへ譲って
置きたい。」
  と申されたけれど、權現様は如何な思いであったかは、許容されなく、強いて、
お断りされたので、秀頼卿が幼少の間は、權現様は天下の政務を行い、加賀大納言
利家卿に、秀頼の養育を頼んで置いた、との遺言で有った。
  以上の様に事が済んだ処、大老職の中で備前中納言秀家・五奉行の中で石田治郎
少輔三成・外様大名の中で、小西摂津守行長並びに安国寺の仲間が心を合せ、正当
な理由無い反逆を企て、諸大名を勧誘して1600年(慶長5年)兵乱が起こり、
日本国中の軍勢が東西に分かれ、美濃国関ヶ原で、天下分け目の大合戦が起こった。
 その時、御当家譜代の人持衆は、大方が、秀忠公のお供で、木曽路を越へたので
関ヶ原の一戦に間に合わなかった。
 十万余りの上方勢に、僅かな味方での合戦の勝利の程は、如何であったであろうか?
と諸人の考えの他、近江国小山で、約束申上げた豊臣家の諸大名黒田長政・細川忠興
加藤嘉明・池田輝政・福島政則・浅野幸長・藤堂高虎、その他筑前中納言秀秋を初め
上方衆がすべて味方をされ、逆徒の軍勢を切り崩したので味方では松平下野守忠吉卿・
井伊直政・本多忠勝親子などが都合良く行った。
 その他、旗本譜代衆の中で、手傷を負った衆中は少ない様で、合戦は幸運となった。
 自から天下は、御当家の手に入った様になったのは、異国本朝((注釈))共に古今例が無かっ
た事である。
 その次第を、考へて見れば、天の許せる聖武などと言い伝えられるのは、權現様の
事でも、成られたのかと奉ったのである。
 その子細を言うと、関ヶ原の一戦の勝利以後は、天下統一の上でもあれば、お心
任かせに成りたい事をもなされ、御自由の御働など成されなくては、思い通りに無ら
ないが、御自身にとっての栄華・栄光を楽しむ事は、少しもなされず万民の安堵を致し、
天下泰平の管理の事だけを、専ら思い巡らして、1616年(元和2年)4月17日、
駿府城内で御他界された。
 その時の御遺言でも神明となって現れ、下野国日光山中に御跡を具現(ぐげん)され御当家
末代迄の、武運を守られると言う念願の趣は、天子にも達したので、東照大權現宮と
いう勅号を仰出られ、1618年(元和4年)以来、日光山に宮居された。
  天下を御守護されたので、代々続いた泰平は、1600年(慶長5年)から
百三十年((注釈))に及んだ事は、異国本朝共に、その例が無いのである。
 なお、この末、如何様な御治世になるかは、分から無い。
  (ひとえ)東照宮様の御神力が深い故である。
 日本上古の事は存じなく、中古・未来人が神に祝うというのは、その人の在世の内に
智・仁・勇の三徳に(かな)った人の身後で神明と仰いで社を建て、時節の祭をして諸人が
尊敬した事である。
 その様であれば、()いて貴人・高位の人だけに限った事でも無い。
  一人の、身分の卑しい者の中であっても、智・仁・勇の三徳を、兼ね備えている人も
居なくてはならない道理ではある。
  しかし、その身の巾が無くては、三徳の広い物に及んで、現われ様も無いので、自ら
その徳も隠れ、人知れず、一生を空しく送る他は無い。
 大身の人の中に、三徳の備わっている方々が居られるならば、その徳に叶った行いに
及んで隠れる事なく、諸人の耳・目にも触れて、世間上にも広く噂をされる様であった。
  三徳の内一徳であっても、確かに備わっている人というのは、稀であるならばして
三徳共に兼備わっている人は、千万人の中でも居るか、居ないかと言うのは道理である。
 昔から、神明と現われ、諸人の崇敬に、預かるという様な人も、多くない。
 近来、豊臣太閤秀吉卿など在世の時からの願いで、豊国大明神という勅号を下され、
宮居なども結構に揃い、權現様の上意で一万石の社領も寄附されたが、秀吉卿の人と
なりは、智勇の二つについて、不足が無い様に生れ備っているが、三徳の中で、第一
とも言う仁の一道は全く欠け却って、不仁の方へ、運が向いた生まれつきの方である。
 智・仁・勇の三徳と言うのは、鉄輪((注釈))の爪などを見る様な、長短なしに、揃わないと、
叶わないのである。
 肝要の仁徳は少しも無く、欠けていては、神明の本体とはいえない。
  その様に、長久でなくては、衰えて社殿などは、今は跡形も無くなったという事
である。
 權現様は、御遺言を以って、神霊と御祝いされ、日光山上に神と成られた。
 1616年(元和2年)より以降、今年迄百十四・五年の間、御代が平穏に治まっ
たので、日本国中の万民が、安堵に居住するという訳は、權現様が御在世なされた
時、智・仁・勇の三徳共に、兼備わられての事で有る。
 その証拠を言うと、先づ智恵は、三河国岡崎の有一の城から、日本国の主と成ら
れたという事で有る。
 その上、智と勇の二つについて、不足が無いかというと、関白秀吉卿が天下統一
の大望が有ったけれど、兎角、權現様の合力無くては、事が行かなかった。
という勘弁(かんべん)であるか、或いは子息の参河守秀康卿を養い君主とされ、更に妹君の
朝日姫を浜松の妻とされ、御重縁に取組まれても、權現様は一円に取り合いなされ
無かった。
 他になされ様も無い、母儀大政所をして証人とし、岡崎の城中へ下されたについ
ては、その様な事で有るので、御上洛された。
 その後、御入魂なされ万事、秀吉卿と仰合をされたので、事がはかどり1590年
(天正18年)になり、小田原で北条家を倒し、それから出羽・奥州迄も手に入れ、
年来の大望の、天下統一の功を立てた。
 この事は、(ひと)えに、内府公の御助力の由であり、秀吉卿一生の間、權現様御一人
の事を、殊の外、ご馳走され、御客あしらいを頼りにした、との言い伝えである。
 それなので、秀吉卿の知謀は、増えるけれど劣る様な事は、存じ無かった。
 次に武勇の事は、若年の今川義元に随身され、駿府に居られた時、十七才で初陣
に立たれた。
  その後、大坂冬・夏両度の陣に掛り一代の間、多かれ少なかれ、敵味方にも手負の
死人の出る様な、軍に立たされた事が、四十八回とも言われている。
 その身一生の間に、五回から七回も軍に立って走り回った事も有り、手をふさいで
通れ無くした者などを含め、数回場を踏んだ武勇の人と言われ、我も人も、誉れ事に
なった。 ここで、()くゝ(こら)えるのが、肝要である。
 次に、御仁徳は、若年で駿河の岡崎に居られた時から、1616年(元和2年)に
御他界遊ばされる迄の、五・六十年の間、御嘉言(ごかげん)・御善行の事は、その時代の旧記の、
中にも大方見られる。
 その上、世人の言い伝えにも残っているので、委細を言う迄も無い。
 更に、千万も入らないという、御仁徳の備っておられる大将様で有る事については、
確かな、手掛かりの証拠が有る。
 その子細は、權現様が一生の内で、大小の合戦に出合われたのが、四十八回ある内、
江州姉川・遠州三方ヶ原・参州長篠・尾州長久手・濃州関ヶ原の、五合戦というのは、
何れも、重大な敵に向かわれ、少数の味方で勝利された。
  是は、何故かというと、御家御譜代の旗本衆の大身・小身共に、權現様が常々御仁
徳に親しく思っていたので、戦場で自身の身命を忘れ、一筋に軍忠を励まし、粉骨を
果たして働いたので、勝利に導いたのである。
 もっとも、兵家の一術で、兵を借りての勝利というのも有ったけれど、一度や二度
は成功したが、大小の合戦の度毎(たびごと)に定って、味方の勝利というのは、仁徳有る大将の
備先(そなえさき)に限った事で、不仁・不徳の大将の手前では、決して出来ない事である。
 ここで考えれば、權現様は、智・仁・勇の三徳に当てはまる御大将様と、奉るに
相違無い。
 權現様御在世の時のお噂について、筆者が聞いている事を、恐れ入りながら書き
記して置いた。
 その趣意は如何なれ、年月が(へだ)たった以前の事などは、唱え失って、古来の事を
知っている人も、(まれ)になって行くについては、權現様の御嘉言・御善行の次第を、
しかと聞いた者も無い様であれば、恐れながら残念で嘆かわしい事である。
 先に話した様に、智・仁・勇の三徳に叶った人様を、東照大權現宮様と崇敬奉る
については、上古の諸人達に(まさ)りはするけれど少しではある劣る様な事は無い
  しかし、みじめで情け無いのは、今時の世俗が、信仰申上げる(しる)しも無い。
 遥(はる)かに西天竺(にしてんじく)の仏の様な、觀音薬師地蔵など信心し、或いは、本朝上代の諸神達
を神と思って尊敬し、東照宮様へ疎遠申上げるというのは、恩知らずの不届者より
他は無い。
 權現様からの、血脈の続いている御家門方は、言う迄も無い。
 その他、御譜代筋目の旗本大名・小名を初め、例え外様向きの大名衆であっても、
1600年(慶長5年)の兵乱以後、百三十年は、御当家代々の御思によって家々
の相続も立ち、家門繁栄と言うのは大方の事で無い事を、()くゝ考えられて(ひとえ)
東照宮様の、御恩深い御恵の故と言う処に、心付けされて、常々信心されるならば
武運に叶う事である。

それについて、自分自身の身の上に於ては言う迄も無く、親しい人々の内で大事な
病人などが居た時は、他の神仏を頼む事なく、東照宮様へお願い申上げ、その効め
が有ったならば、重ねて有難き幸せと思い、例え願いが叶わなくても、東照宮様の
御神力に叶わなければ、定って平常の時が来ると思って、諦めない様にする事である。
  古人の言葉に「その((注釈))にあらずしてこれを祭るは諂う((注釈))なり」と有る。
 去る1600年(慶長5年)から百三十年以後、天下の平穏に治まり、代々続いて
公儀の恵みで、各家を継ぎ身を立てて、安楽に渡世された人々として、東照宮様の
事を、その()で無い神とは、決して言わない。

 この事を、()くゝ思慮する事が肝要である。
 筆者は1639年(寛永16年)に出生し、今年は九十才の春秋を迎えるけれど
泰平の代の事であれば、俸祿(ほうろく)を受けながら、身命異常なくこの世に長く生きている
についても、偏に東照宮様の御神恩の事と、尊く有難き幸せに思う。

    八十とせの世にはふるとも
     東方照らす御神ならずや
      享保十三年大呂
             大道寺友山  綴え

(注釈)
   供番(ともばん)    供をする番に当たる事。
   使役    人を使って仕事(特に雑役)をさせる事。
   陣屋    軍兵の集まっている所。
   笹垣    笹竹でゆった垣。
   ねこざ        わら縄で編んだ大形のむしろ。
   裏屋(うらや)    町並みの裏にある家。
   背戸屋(せどや)   他の家の裏に建てて有る家。
   安危(あんき)    安全か危険かということ。
   六波羅(ろくはら)   京都鴨川の東、五条と七条の間の地。
   異国本朝   外国と日本。
   百三十年   筆者・友山がこの夜話を書いていた時までの年数。
          幕末までは267年。
   ()     邪神。
   (へつら)う     機嫌をとる。
   鉄輪の爪   金輪の所。
         

大意弁