

付記 1、皇紀2600年(西暦1940年)記念事業の関連で、英国人により「武道初心集」が英訳された。
「A・L・SADLER著」「THE・BEGINNERS・BOOK・OF・BUSIDOU」
1、友山の妻
1、津軽校尉政広(政方の父)の妻の鶴は、北条
山鹿素行(甚五左衛門高祐)の娘であり、
1、友山の娘の
後の
して数多くの著書を残している。
大道寺 友山
(天正18年)落城の時、
友山の父
十才になった
しかし、わずか六年後の1616年(元和2年)忠輝は、大坂夏陣の怠戦で左遷させられた。
家康公に仕えていた事もあり越後国に居た、堀
する1636年(寛永13年)迄、仕えていた。
その時、堀
友山が生れたのは、1639年(寛永16年)で父の死の時、わずか三才の身であった。
十二才の頃、江戸に出た友山は、大道寺家と縁故の北条
安房守の縁で、備後国・三次藩、浅野
その後友山は直接、北条流軍学者でもある安房守に兵法と地理を学び、山鹿素行には北条流の極意を伝授された。
小畑景憲(勘兵衛)には甲州流の軍術を学んだ。
1657年(明暦3年)正月18日の江戸大火事の直後、幕府の命で都市計画用の江戸寛文絵図の作成を大目付で
あった安房守に申付けた。
友山も作図の測量など協力し、寛文図五版が完成したのは1673年(寛文13年)であった。
1691年(元禄4年)12月、給米百俵で会津藩・松平
五十石で臣籍に列せられ藩主には軍学を指南し内事・兵制・交通などの要事に関与した。
1700年(元禄13年)12月、
会津藩に出入りしていた時の活動について、元禄4年、藩邸に出入りを命じられ多くの藩政の重要事を仕さどった。
第一は、軍器製作に詳しい者として1693年(元禄6年)5月6日から、甲冑の製作を初めている。
第二は、会津藩主が松平姓を称し、葵の紋を用いる事に、
第三に、南山松川通りから野州氏家へ新道普請の事について、初発から種々御用を仰付けられた。
しかし、生来の剛直が
和解を請うて旧功を懐かしんで許された。
1700年(元禄13年)武蔵岩淵に棲居したが、その時、博識の翁が居て、その話から得た材料で、その後
麻布に移ってから徳川家康の事歴を記述した「岩淵夜話」を著した。
1714年(正徳4年)7月、福井藩・松平吉邦に客分として、召抱えられた友山は諸侯の望みに任せて自由に
兵学の講義に出掛けた。
「武道初心集」「落穂集」などの著作は、福井藩に移ってからのものである。
1717年(享保2年)4月13日、嫡子重高(繁郷)に、家督を譲って隠居した。
重高は福井藩に召抱えられ、江戸留守居役を勤めた。
その後、大道寺家は寄合席の門閥家として、幕末迄七代続いた。
友山は1730年(享保15年)11月2日、江戸で没した時、九十二才であった。
墓所は、東京渋谷の東北寺に有る。(写真左は家紋と中は墓と東北寺)
人となりは、若年から兵法によって世に聞こえ、節倹・度量にして博文強記で、武家の 故事に精通し
孔子の教えを信奉した。
又、長寿でもあったので、徳川家光から家継迄に宣って治世の変遷を、眠のあたりに 見て来たので藩政・家政の
機微を知る巧者として、諸侯に
著書の「武道初心集」は武士の心得書であり「落穂集」「霊厳夜話」などは徳川家康の 事跡・嘉言を記録する史料である