霊厳夜話


付記  1、皇紀2600年(西暦1940年)記念事業の関連で、英国人により「武道初心集」が英訳された。
       「A・L・SADLER著」「THE・BEGINNERS・BOOK・OF・BUSIDOU」

        1、友山の妻()(ぐり)斉藤九兵衛の三女で祖父の斉藤元信(徳元)は武将で俳人でもあった。
        1、津軽校尉政広(政方の父)の妻の鶴は、北条安房(あは)(のかみ)氏長に北条流を学んだ山鹿流兵学の祖である
       山鹿素行(甚五左衛門高祐)の娘であり、建部(たけべ)(あや)(たり)祖母である。
        1友山の娘の衛子(もりこ)は、津軽藩家老津軽校尉政方(喜多村長命)に嫁ぎ次男金吾(久域(ひさむら))を生んだ。
          後の建部(たけべ)(あや)(たり)(1719年〜1774年)友山の孫であ、俳人・国学者・画家・読本作者
        して数多くの著書を
残している。

 
 
大道寺友山

    大道寺 友山
 大道寺(だいどうじ)友山(ゆうざん)は、江戸前・中期の兵法家。甲州流軍学者。  1639年〜1730年。 
友山(ゆうざん)は号実名は重祐(しげすけ)通称は孫九郎といった。号を知足軒(ちそくけん)称した。
 北条氏長(うじなが)に仕え、川越・松井田城主でもあった大道寺駿河(するが)(のかみ)(まさ)(しげ)を、曽祖父に持った。
嫡子(ちゃくし)(長男)で祖父の(なお)(しげ)は、小田原城主・北条氏直(うじなお)に仕えていたが、1590年
(天正18年)落城の時、氏直(うじなお)と共に豊臣氏に下り徳川家康公の娘で、氏直の女婿の督姫と共に、高野山に放たれた。
  (なお)(しげ)は、その後、徳川秀忠公に仕えたが、京都伏見で事件に巻き込まれ1602年(慶長7年)に落命した。
友山の父(しげ)(ひさ)外祖由良・信濃守に(やしな)はれた。

 十才になった(しげ)(ひさ)を、秀忠公が哀れんで、家康公の六男・越後高田の藩主・松平忠輝の小姓にした。
  しかし、わずか六年後の1616年(元和2年)忠輝は、大坂夏陣の怠戦で左遷させられた。
  家康公に仕えていた事もあり越後国に居た、堀丹後(たんご)守直寄(のかみなおより)の懇意で、(しげ)(ひさ)が病死
する
1636年(寛永13年)迄、仕えていた。

  その時、堀丹後(たんご)守直寄(のかみなおより)は、越後国村上城主になっていた。
 友山が生れたのは、1639年(寛永16年)で父の死の時、わずか三才の身であった。
  十二才の頃、江戸に出た友山は、大道寺家と縁故の北条安房(あは)(のかみ)氏長に、一時、養子になっていたが
安房守の縁で、備後国・三次藩、浅野因幡守(いなばのかみ)長治(ながはる)に奇した。

  その後友山は直接、北条流軍学者でもある安房守に兵法と地理を学び、山鹿素行には北条流の極意を伝授された。
  小畑景憲(勘兵衛)には甲州流の軍術を学んだ。
  1657年(明暦3年)正月18日の江戸大火事の直後、幕府の命で都市計画用の江戸寛文絵図の作成を大目付で
あった安房守に申付けた。

  友山も作図の測量など協力し、寛文図五版が完成したのは1673年(寛文13年)であった。
  1691年(元禄4年)12月、給米百俵で会津藩・松平肥後(ひご)(のかみ)正容(まさかた)の客分となり同10年には
五十石で臣籍に列せられ藩主には軍学を指南し内事・兵制・交通
などの要事に関与した。
  1700年(元禄13年)12月、越度(おちど)があったとして追放された。
  会津藩に出入りしていた時の活動について、元禄4年、藩邸に出入りを命じられ多くの藩政の重要事を仕さどった。
  第一は、軍器製作に詳しい者として1693年(元禄6年)5月6日から、甲冑の製作を初めている。
  第二は、会津藩主が松平姓を称し、葵の紋を用いる事に、盡力(じんりょく)している。
  第三に、南山松川通りから野州氏家へ新道普請の事について、初発から種々御用を仰付けられた。
  しかし、生来の剛直が(たた)り重臣との折合が悪く追放されてしまったが数年の後、日光の門主に(しき)りに
和解を請うて旧功を懐かしんで許された。

  1700年(元禄13年)武蔵岩淵に棲居したが、その時、博識の翁が居て、その話から得た材料で、その後
麻布に移ってから徳川家康の事歴を記述した「岩淵夜話」
を著した。
  1714年(正徳4年)7月、福井藩・松平吉邦に客分として、召抱えられた友山は諸侯の望みに任せて自由に
兵学の講義に出掛けた。

  「武道初心集」「落穂集」などの著作は、福井藩に移ってからのものである。
  1717年(享保2年)4月13日、嫡子重高(繁郷)に、家督を譲って隠居した。
  重高は福井藩に召抱えられ、江戸留守居役を勤めた。
  その後、大道寺家は寄合席の門閥家として、幕末迄七代続いた。
  友山は1730年(享保15年)11月2日、江戸で没した時、九十二才であった。
  墓所は、東京渋谷の東北寺に有る。(写真左は家紋と中は墓と東北寺

  人となりは、若年から兵法によって世に聞こえ、節倹・度量にして博文強記で、武家の 故事に精通し
孔子の教えを信奉した。

  又、長寿でもあったので、徳川家光から家継迄に宣って治世の変遷を、眠のあたりに 見て来たので藩政・家政の
機微を知る巧者として、諸侯に珍重(ちんちょう)された。

  著書の「武道初心集」は武士の心得書であり「落穂集」「霊厳夜話」などは徳川家康の 事跡・嘉言を記録する史料である