静岡サミル聖書教会

牧師のエッセイコーナー 2012年

2013年3月

「主のご計画に信頼しよう」

 早咲きの桜が満開になり、いよいよ新年度を迎えます。多くの人が新しい道へ進む準備をしていますが、それぞれに新しい道への期待と不安が入り混じって、複雑な心境と言うところが実態かもしれません。そこで、新年度を迎えるにあたって、聖書の御言葉か ら学び、しっかりした心備えをしていきましょう。

 まず第一に新しい道が開かれた事実の背後には神様のご計画があるから、恐れや不安に囚われる必要はないということです。全てを支配しておられる神様が、新しい道を開かれたのです。 「二羽の雀は1アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地の落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。だからおそれることはありません。(マタイ10:29〜30」 と主が言っています。

 次に主のご計画は最善のご計画だということです。主は私達を心から愛し、信頼し、期待し、最も良い道を開いて下さったのです。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それは災いではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。(エレミヤ29:11)」と主が言っていますから、その御言葉の約束を信じて安心して進んでいきましょう。

 それでは主の最善のご計画とは具体的にどのような目標をもったものでしょうか。御言葉には「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。・・・これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。(へブル12:10〜12)」とありますから、私たちの新しい道とは霊的成長と祝福をもたらすために開かれた道ということができるでしょう。従って全てが楽しくて、ラッキーな道であるとばかりはいえない道かもしれません。厳しい試練が待ち受けているかも知れません。そのような時、どうか勘違いしないで下さい。私達はこの世の訓練のように、鍛えられて強くされ、独り立ちしてサバイバルできるようになるために訓練されるのではないと言うことです。逆に色々な訓練を通して、いよいよ自分の肉欲や高慢などの自我に死んで弱くされ、ますます主に頼らなければ生きていけないように訓練されると言うことです。主の愛と力に信頼し甘えていく方向へと霊的に訓練されていく結果、そこに主の栄光と祝福が表されていくというご計画なのです。これが使徒パウロが歩んだ「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(Ⅱコリント12:9)」という道なのです。

 ですから、私たちは新しい道に進んでいくにあたり、主にいよいよ頼っていく祈りの訓練をしていきましょう。祈りの中で主の愛と力を求め、味わい、満たされ、主の御言葉の約束と平安をいただくとき、私達は聖められ、主の栄光を現す器として整えられていくのですから。

2013年2月

「封建的体質からの脱皮を勝ち取ろう」

  このところ、体罰問題がクローズアップされてきていますが、その根本的問題の一つは日本の社会の封建的体質の中にあると思います。上下関係によって築き上げられた社会体制の中で、上の者が権力で下の者を支配し、下の者は上の者に逆らえないので我慢し、奴隷的に仕えている姿が日本のどこにもあります。スポーツの中に、会社の中に、家庭の中に、学校の中にあります。このような体質の蔓延している社会が日本と言う国の現状です。そしてその体質が沢山の悲劇を生み出しているといって良いでしょう。このような力を持った者が力のない者を支配し傷つける封建的体質は、最も半聖書的で主が最も忌み嫌う体質なのです。

  私達はこのような体質が自分の中にも刷り込まれているという事をしっかり見つめなければなりません。自分の中にあるこの半聖書的で罪を生み出す封建的体質(古い皮袋)を深く認識し、それを取り除いていかなければなりません。そうしないと私達は人間関係を力関係の中でしか作ることができなくなってしまい、支配者になるか奴隷になるかの二者択一しかできない人間となり、傷つける人か傷つけられる人になってしまい、神様が与えた各自の人権を上下関係に関係なく尊重し愛することができない人間になってしまいます。エリヤハウスでは「愛の反対は支配です」と教えていますが、まさにその事を肝に銘じる必要があると思います。

 それではどのようにこの忌まわしい封建的体質を捨てていったら良いのでしょうか。それはまず第一にこの罪の体質が自分の中に深く刷り込まれていることを認識し、憎まなければなりません。そしてこの体質の根っこを探って抜き取ることが必要です。多くの根っこは自分の育ってきた家庭環境の中にあります。親が権力を持って支配していた家庭で育った人には奴隷にされた体験があり、またその逆に親に甘やかされて育った人の中にはわがままな支配者になった体験があります。この二つを同時に経験する人もいますが(父親から虐待され、母親から甘やかされた人など)、このような体験が呪われた封建的体質を作り出していくのです。

 私も男尊女卑的な封建的体質の強い李家に生まれ、この体質を嫌と言うほどに叩き込まれてきました。そのためにその古い皮袋に支配された醜い人間となり、強い者や上の者には奴隷的(共依存的)に仕え、弱い者には支配者となって傷つけしまう者(依存的)になりました。その結果、幸せで温かい家庭を作りことに失敗してきた者です。しかし幸いにも、エリヤハウスの学びを通して、このことに気づかせられ、悔い改めさせられ、必死にこの体質から抜け出そうとして今まで格闘して来ました。そして家庭の再建に取り組んできました、そして少しずつ抜けられてきたことに感謝しています。

 どうか愛する皆さんも自分の中にあるこの奴隷になったり、支配者になったりしてしまう封建的体質、言い換えれば共依存的になって自分を傷つけたり、依存的になって人を傷つけたりする古い罪深い体質から抜け出すために真剣に格闘していきましょう。

2013年1月

「主を知ることを切に求めよう。」

新年、主にあっておめでとうございます。さて、今年皆さんはどのような霊的課題を主から与えられているでしょうか。私達は主の子供として、年毎に霊的成長を目指して歩んでいかなければなりません。ある人は昨年の霊的課題をクリアし、新たな課題を示されていることでしょう。ある人は昨年からの課題を引き続き突きつけられている人もいるでしょう。ある人は自分の課題が良く分からないという人もいるかもしれませんね。

教会も年毎に成長していくために霊的課題が示されてきましたが、今年、主が私達の教会に示された年間の御言葉がホセア6:3の「主を知ることを切に追い求めよう」と言うことです。この御言葉が示されたとき、今年の霊的目標がはっきりとしてきました。それが「熱心な祈りの生活を通して、主を知る」と言うことです。ですから、今年一年間、皆さんと共に熱心にこの課題に取り組んでいきたいと思います。

それでは「主を知る」とはどのような意味でしょうか。それは二つの意味があると思います。一つはより正しく知るということであり、もう一つはより深く知るということです。私達は往々にして主を誤解したり、曲解したりしていることがあると思います。また主を心の表面でしか知らないということがあると思います。これでは私達の信仰は成長していきません。より正しくより深く知ることによって私達の信仰は成長していくことができます。ですから皆さんに今年、主をより正しく深く知ることに挑戦していただきたいのです。そして特に主の愛と恵み、それから主の義と聖さについてより正しくより深く知っていただきたいと思っているのです。

私は昨年末の断食祈祷聖会において、一つの課題について祈り込みました。それは「父なる神の愛と聖さ」についてでした。父性愛について、どうしても私の心の深いところでの理解と納得がいまいち得られていませんでした。私の肉の父から受けた虐待の傷が予想以上に深く私の心を歪め、見えなくしていたために、天の父神の愛と聖性を正しく知ることに関して、一枚のベールがかかったような状態でした。そこで私は、このことに関する主の啓示をいただきたいと思って祈り込んだのです。すると主は私の祈りに答えてくださって、「私は創造主であり、人間を私の最高の作品にするために創造した。だから私はお前を心から喜び、そして聖くしようと教え訓練しているのだ」という啓示でした。この小さな声を聞いたとき、私の心の深いところのベールがはがれていきました。神の父性愛と聖さに関する動機がどこから来ているのかが理解できて、とても深く納得することができたのです。このようにして、主は心から切に主を知りたいと求める私の祈りにも答えてくださいました。ですから皆さんも主をより正しくより深く知るために切に祈り求めていきましょう。そして霊的に成長していきましょう。 

2012年12月

「メリークリスマス!」

クリスマスのイメージを、多くの著名な画家達が、聖母マリヤの懐に抱かれた幼子イエスの姿として書きましたが、そこには母性愛豊かな母マリアの眼差しに見守られた幼子イエス様が描かれています。そこで今年のクリスマスを迎えるに際して、聖母マリアではなく、神様の母性愛によって私達が守られているという福音をしっかりと確認し、この恵みを心から味わうときにしていきましょう。

肉の母から十分な母性愛をもらえないで幼少期を過ごした人は、残念ながら自分の存在に対する自信と肯定感を持つことができない人格となり、人に対する基本的信頼感を持てない不安定な人格になってしまいます。 先日、私は一人の方のカウンセリングをしましたが、その人は産みの母に虐待的養育をされてきたために、幼少期の心が深く傷ついてしまい、自分の存在に対する自信をまったく失い、常に孤独感と不安感にさいなまれながら生きる人となってしまったそうです。そして人に見捨てられることがとても怖くなって、その恐怖を少しでも和らげるために完璧主義的な人間になり、一生懸命パフォーマンスし、人の顔色を見ながら緊張して生きるようになってしまったそうです。

私はその人の話を聞きながら、母性愛が不足するとこんなにも人格が傷つき、ゆがめられてしまうのだと言うことを改めて確認させられましたが、皆さんも、十分な母性愛を受けられなかったために傷ついてしまったインナーチャイルドを内に抱えていないでしょうか。皆さんの中に、自己存在の否定感が強い人、人間不信と孤独感が強い人、神様に甘えることができずがんばってしまう人、罪責感が強い人、完ぺき主義が強い人、パフォーマンスが強い人、常に不安と恐れを持ち、緊張感と強いストレスを抱えている人、このような実を実らせている人は、母性愛不足によって傷ついた人格を内にかかえている可能性が大きい人です。どうかそのような人は、イエス様のところに行って癒しをいただき、心を変革していただきましょう。なぜならイエス様の十字架の贖罪は天の神様の完全な母性愛の証しだからです。

祈りの中で、肉の母の母性愛をもらえず傷ついたインナーチャイルドをイエス様の十字架の元に持っていき、天の産みの母の母性愛に包んでいただくとき、皆さんの傷ついたインナーチャイルドは深く慰められ癒されていきます。パスカルは人間の心には空洞があり、その空洞を満たすのは神の愛だけだと言っていますが、天の母性愛(慰めと共感の愛、受容の愛、無条件で無制限の愛)を皆さんの心の最も深いところに直接満たしていただき、人格の歪みを根本から矯正して、自己存在に対する肯定感と自信を取り戻しましょう。また神様に対する信頼と甘えの皮袋を作って、いつでもどんなことでも甘えて祈り求める人になりましょう。そして天の母性愛を回りに流す器に変えていただきましょう。

2012年11月

「否定的感情と否定的思考回路に囚われていませんか?」

エリヤハウスの第4週の学びがまた始まりました。今回の学びのテーマに「不安と恐れに打ち勝つ」「囚われの霊」という二つのセッションがありますが、それらに関連して、この頃特に教えられていることを書いてみたいと思います。

 多くの心の病に苦しんでいる人々のカウンセリングを行なって来ましたが、そこには多くの共通の病状が見出されます。その病状は、幼少期に受けた傷つき体験によって、心が否定的な感情と、全てを否定的に考える思考回路に支配されてしまっているということです。否定的な感情の中で顕著に見られるものは、不安と恐れです。十分な親の愛情を受けることができなかった魂は、生きることに対する不安と恐れに囚われてしまい、常に周りのできごとに緊張し、おびえ、孤立感や不信感に囚われて生きています。そのような否定的な感情に支配されてしまった人は、いつの間にか全てを悪く考える否定的思考回路(古い皮袋)を潜在意識の中に作ってしまい、その奴隷となってしまいます。まさに「否定的感情と否定的思考回路に囚われた霊」になってしまうのです。

 皆さんの中にも、これらの人々と同じような心の状態がないでしょうか。自分は病気にはなっていないので大丈夫と思っている人の中にも、強弱の違いはあれ、似たような否定的な感情の根と否定的思考回路の皮袋が心の潜在意識の中にあるものです。このようなものを持っていると、信仰生活に大きな悪影響を及ぼします。神様は御言葉を通して私達に素晴らしい恵みの約束を与えておられます。それを信じ受け取ることによって、私達の心には肯定的な感情と思考が生まれ、明るく希望に満たされて生きていけますが、潜在意識が「不安と恐れ」「否定的思考回路」に囚われている人は、その良きものをすべて拒絶してしまいます。幼少期にかけられたこの悪魔の恐ろしい罠から私達はしっかり脱出していく必要があります。

 私も機能不全の家庭の中で育ち、暴力的な父親の存在のせいで、自分の命が安心できる場所がありませんでした。いつも自分の命が脅かされているように感じ、常に不安と恐れに支配されていました。その結果私の思考回路も常に否定的な思いを生み出す思考回路となってしまいました。物事の明るい面、肯定的側面を見ることができず、常に悪いことを想像し、悪い結果を考えてしまう霊となってしまっていました。しかしそのような私も、インナーヒーリングミニストリーを受けて、幼少期の傷ついた心が随分癒されて解放され、囚われの霊の部分がなくなってきました。昔はよく家内に「なぜあなたはいつも、そんなに物事を悪く捉えるの」と言われたものでしたが、今はそのように言われることが少なくなってきました。かえって家内に対して「お前ももう少し前向きに考えたらどうか」と言えるようになって来ました。

 皆さんも自分の中にある否定的感情と否定的思考の習慣を追い出して、信仰生活の恵みを豊かに味わう者に変えられていきましょう。 

2012年10月

「命に至る悔い改めとイエスキリストへの信仰」

 ウエストミンスター小教理問答書の第86・87問には、私達の救われるための二つの条件が記されていますが、それが命に至る悔い改めとイエスキリストへの信仰です。この二つはコインの表裏のような密接な関係を持っており、片方だけでは不十分なものです。

 そこでこの二つの関係性と其の真の意味を学びたいと思います。ローマ書では信仰によってのみ救われると書いてあり、悔い改めは書かれていないので、悔い改めが必要ないかのように思ってしまいますが、マルコの福音書1:15でイエス様が明確に「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」と言っていますので信じるだけではだめなことが分かります。

 それでは命に至る悔い改めとはどのような意味でしょうか。問答書では、「罪の自覚を持ち、其の罪を悲しみ、憎み、新しい服従への充分な決意と努力をもって、罪から神に立ち返ること」だと説明されています。悔い改めのギリシャ語の言葉はメタノイアといい、原語の意味は「方向転換する」という意味です。そこから言えることは神に背を向けて自己中心的に生きている罪深い生き方の方向を転換し、神の方向へ向きを変えて、神中心の生き方を選ぶことが悔い改めだということが分かります。従って単に罪を犯さないように真面目に生きることが悔い改めではありません。この世の人々でも良心に従って、真面目に生きている人々がいますが、それだけでは罪というものの本質をまったく理解していないので、救われることはありません。

 罪の正しい自覚を持つとは、神を無視し、自分の人生の主導権を自分が持ち、自分の夢や野心、欲望を満たして生きていることが罪だと自覚することなのです。そのような生き方が主を悲しませていることを悟って、そのような生き方を憎むほどの熱意を持って、神中心の生き方に方向転換することを選び、実行することが真の悔い改めなのです。従ってよく言われる身勝手なご利益的信仰だけでは救われることはありません。新しい服従への充分な決意と努力が伴った悔い改めをし、イエスキリストを自分の人生の主人として信じ受け入れ、主に仕える生き方を選択する者が救われるのです。

 人間は自分に対しては甘いことが多いと思います。そのために罪に対する認識も甘くなり、罪の自覚が浅いと言うことが往々にして起こります。その結果、罪を悲しみ憎むことがなかなか出来ません。そして命に至る悔い改めが不十分になることがあります。この機会に自分の悔い改めが充分なものかどうかを吟味しましょう。そして聖霊様の助けを借りて、より深い罪の認識を与えていただきましょう。また罪の増し加わるところには、恵み(贖いと赦しの)も満ち溢れましたというローマ5:20の御言葉の真実を味わうものとなりましょう。

2012年9月 

「オリンピックで思わされたこと」

 今回のオリンピックでは、特に団体競技でのメダル獲得が多かったように思いますが、そこに日本人的体質がよく現されていたなと思いました。それはどういうことかというと、一人では力をあまり発揮できないが、集団で戦うと一致団結してよい結果をだすことが出来るという民族的体質を日本人は持っているいうことです。

 団体競技では勝利を得るためには、個人は自分に与えられた役割を自覚して、勝手なことをしてはいけません。個人としての自分の能力を最大限に発揮して役割をこなして、チームの勝利に貢献していかなければなりませんが、この点に関して日本人は、優れた能力を発揮する体質を持っていると思います。その原因の一つが日本の教育制度でしょう。日本では、例えば企業戦士を作るために、個性を伸ばしていくというよりは、封建主義的体質の中で、没個性化教育が行われ、全体の目的達成のためには個を犠牲にして、全体のために仕えていくべしといった教育と訓練がなされてきました。そのような体質を持っている日本人だからこそ、多くの団体競技で、その良い面がでてメダルが取れたのだと思います。

 そこで、このような教育と訓練を受けた私達は、その体質をチームキリストサミル小隊としての教会形成に生かしていきたいと思います。私達の敵はこの世の神として君臨しているチームサタン軍です。世の人々をだまして滅ぼそうとする彼らの戦略に対抗して、滅び行く魂を彼らの手から奪い取る戦いです。この崇高な目的を達成するために、まず第一に自分の身をチームキリストの戦士の一人として捧げることが重要です。そして次に、私達が自分の賜物と役割分担をしっかり認識して、立てられたチームリーダーのもとに結集して、互いに連携し合い、協力し合って戦う事です。個人が勝手に動いていては目的を達成することはおろか、自分の信仰さえ失う危険に会いますから気をつけましょう。

 そのために、まずは自分の信仰の強化のために、主日礼拝(全体礼拝)に集い、互いに信仰を燃やし合いましょう。また毎日デボーション(個人礼拝)を捧げて、主の臨在と御言葉を受け取りましょう。また祈祷会に出て御言葉を学び、執り成しの祈りを捧げる勇士になりましょう。またチームを作ってセルグループ(グループ礼拝)を作り、励まし合い、祈りあい、助け合って伝道しましょう。(セルグループは主の軍隊の最小単位としての分隊です)

 以上のことをすることを聖霊様が皆さんに願っています。主は私達一人ひとりが戦士として戦えるように整えたいのです。ですからこれらの促しに従って、以上のことを実践しましょう。また必要な時には個人的にリーダー(牧会スタッフ)のもとに来て、カウンセリングとコーチングを受けましょう。そうするならば私達の戦闘能力は格段にアップし、戦う小隊となってチームサタンに勝利することが出来るでしょう。

2012年8月 

「新しい聖霊の命を移植されて」

 0さんが臍帯血移植治療を受け、戦っていますが、病気になってしまった血と新しく移植された健康な血が交換されていくことによって病気を克服するという治療法です。この治療法は私達の救いの方法に良く似ていると思います。私達の霊的命も罪に汚れ、全面的に堕落しています。その堕落は自力で更生させることが出来ないほどひどいもので、そのままでは助かりません。そこで主は、そのような罪深い私達を救い、再生させるために、霊的移植手術という治療を行って下さいました。それが健康な聖霊の命の注入による新しい命の再生という方法です。

 私達は霊・魂・体で作られていますが、その中心にある霊の中に神様は聖霊を内住させてくださり、病んだ魂を生き返らせる治療をして下さっているのです。聖霊様は信じる私達の魂の人格の全ての領域(理性・良心・感情・感覚・意志)に影響力を行使し、正常に機能することが出来るように、現在奮闘していて下さるのです。その結果、私達は神様への信仰を維持し、少しずつ再生されているのです。

 しかし、臍帯血移植手術において最も難しい問題の一つが、拒絶反応ということです。新しい血は、自分の体にとっては異物なので、その血が定着しないように、排除しようとする働きが起こり、新しい健康な血の移植を妨げるそうですが、それと同じようなことが私達の心の中で起こっているということが言えるでしょう。聖霊様は私達に対して、神様への信仰だけでなく、神の子としての健全な新しい価値観と行いの原理を御言葉や説教を通して教え、それを実践するように促しておられますが、そのような新しい価値観と行いへの転換を妨げる霊的拒絶反応が、私達のなかの古い命によって引き起こされてしまうのです。私達が今まで築いてきた古い罪深い価値観や反応、習慣を捨てることに抵抗する自我の力が働き、霊的葛藤の渦の中に入ってしまうのです。

 あなたは聖霊様の新しい命によって、どこまで霊的移植手術が進み、霊的再生が行われているでしょうか。霊的再生が前進するために最も大切なことは、礼拝生活を守ること、聖書に親しむこと、祈祷会などで御言葉を学ぶことなどです。新しい価値観を学び、聖霊の満たしを求めて祈り、御言葉を実践する力と愛を与えてもらうこと、また古い価値観を捨てることを選択し、悪習慣を悔い改めること、潜在意識に潜んでいる傷を癒して、その傷がもとで出来た自己保身の古い皮袋や苦い根を捨てることなどをしていくことが大切です。

 さあ、現実に拒絶反応の起きている部分を発見し、勇気を持ってその根本的問題を取り除いていきましょう。古い肉の命は生かしていても百害あって一利なしです。ですから古い命を捨てて、聖霊の助けによって、新しい魂に再生していただきましょう。

2012年7月 

「父親から受けた悪影響を排除しよう」

 播州地区信徒修養会に招かれて、幸いな奉仕の機会が与えられましたが、その折に日キ教団高砂教会の礼拝で奉仕させていただきました。その際に私は牧師である手束先生と教会員の交わりのあり方を見させていただきましたが、教会員が主から与えられている牧師の権威を尊重し、敬っている姿を見させられて,とても教えられました。

 手束先生は、日頃から日本の牧師が、教会員から敬意を払われていないこと、牧師の霊的地位が低められていることが、日本のリバイバルを妨げている要因の一つであると主張している方ですが、其の主張には一理あると思います。地域教会に立てられた牧師には神に立てられたリーダーとしての権威がありますが、其の権威を教会員が軽んじたり認めないで、牧師に従わなかったりすることは、信仰生活における神の祝福を逃す大きな一因となってしまいます。なぜなら牧師を軽んじることは、結果的に神を軽んじ、従わないことになるからです。

 それではなぜ、教会の父親的存在である牧師の権威が往々にして軽んじられたり認められないということが起こるのでしょうか。その最も大きな原因の一つが、子供時代に自分の父親との関係が悪かった家庭に育った体験を持った人の場合に起こります。父親に虐待的に育てられたり、逆に放任されて育てられたり、わがままに育てられたりした場合、その人の中には父親の悪いイメージが埋め込まれます。そして「父親を裁き敬わない皮袋」が心の中にでき、それがひいては「権威に対する反抗や軽蔑の皮袋」になります。このような皮袋を持ったまま信仰を持った場合、その人は教会における牧師の権威を敬ったり、従ったりすることが出来ない者となってしまいます。

 ですから皆さんの中に父親のイメージが悪い人や、どういうわけか牧師に対して反感を感じたり、裁きの気持ちや、敬えない気持ちが強くあったりする人は、気をつけなければなりません。そのような人は子供時代に作られた潜在意識の中に、権威を軽んじたり、権威に反抗し、権威を裁いたりする皮袋があると思います。そのようなものを持っていると、神様からの祝福を逃してしまう危険があることを自覚しましょう。そして、そのような悪い皮袋と権威に対する悪いイメージを祈りの中で十字架につけて捨てましょう。また父親を裁いたり軽蔑していたことを悔い改め、父親を赦しましょう。

同時に父親に傷つけられた心の痛手を、天の父親の暖かい父性愛で癒していただきましょう。その上で、「正しい権威を敬い、従う皮袋」を新たに心の中に埋め込みましょう。そのようにして心を一新するならば、あなたも心から主に従うことが出来るようになり、また主が立てられた牧師の権威を認め、敬い、従うことが出来るようになれるでしょう。

2012年6月 

「与える教会へ」

 祈祷会でのモリス師の「祝福される人生」のセミナーの学びを通して、多くの示唆をいただきましたが、その中で重要なことをまとめて分かち合いたいと思います。

 まず第一に祝福される人生を歩む秘訣は「良い忠実な管理者」になることです。私達は神と富の両方に仕えることは出来ません。神に仕えるために召された僕であることをしっかり心に刻んで、良い忠実な管理者になることをを目指していくならば必ず祝福されるということです。そのための重

要な試金石が十分の一献金(返金)の管理だと改めて教えられましたから、それをきちっと実行していきましょう。  

 次に教えられた秘訣は「与える」ということです。神の愛は与えるということによって実行されました。神が其のひとり子を与えてくださったことによって、私達は救われ、祝福を受ける子となりました。従って、同じように私達も「与える」行為を愛の業として行うとき、祝福されるのです。世の人々の霊は自己中心の霊となり、「むさぼりほしがる霊」となってしまいました。その結果呪いを受ける人生となりましたが、私達は聖霊をいただき、愛によって「与える霊の器」になるように召されました。ですから、聖霊に満たされて「与える霊」となり、人々の色々なニーズに答えて与えていきましょう。私達が与えれば与えるほど、主は其のことを喜び、更に与えることが出来るように私達に与えて下さるのです。

 更に教えられたことは、安息日の戒めを守って自分の霊性と肉体の健康管理をしていくということです。日本人は総じて働きすぎの傾向があります。そのため神様が与えて下さった安息日律法を破ってしまいます。其の結果、過労状態になり、健康を害してしまうということが往々にしてありますが、このようにすることは自分の霊性と健康を正しく管理していないということになります。ですから、安息日律法を守って、霊的リフレッシュと肉体の疲労回復を心がける生活をしていきましょう。

 他にも、救われた者は、次に内面の癒しと解放を受けて、心を新しい皮袋に転換していくことによって良い忠実な僕になることが出来るということも語られていましたが、私たちの教会がインナーヒーリングと解放のミニストリーに取り組んできたことが、正しい方向だということを確認することが出来、感謝でした。

 モリス師が言っていた、私たちの人生が祝福された人生になるための秘訣は、何か特別なことをするということではありませんでした。聖書の御言葉に書かれている教えと戒めを守り、実践するならば祝福されるというシンプルなものでした。今年もペンテコステ記念日を迎えましたが、改めて聖

霊の満たしをいただいて、御言葉の教えを実行する者に変えられるように祈り求めていきましょう。

2012年5月 

「オーナーシップからスチュワードシップへ」

 祝福される人生は自分の人生の主人を自分にして生きるオーナーシップ的生き方を捨てて、キリストイエスを人生の主人として迎えて、その主人に仕える僕として生きるスチュワードシップ的生き方をする者に与えられます。

 人間の罪とは、自分が創造主なる神に仕えるために作られた僕であり、管理人であることを忘れて、あたかも自分の人生の所有権を自分が持っていると錯覚し、自分の欲望や野心、夢を追い求めて生きていることにあります。そのような本末転倒した的外れな生き方をしていて、祝福された人生を送ることはできません。

 ローマ12:1〜2で主は「あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として捧げなさい。・・・・何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と言っていますが、それはつまりスチュワードシップを持った心に自分を一新し、神に仕える僕として自分の人生を捧げなさいということです。

 それでは僕として具体的にどのようにしたら良いのでしょうか。それは第一に自分に与えられた全てのものの忠実な管理人となって、神と人に仕える者になることです。別の判りやすい言い方をすれば、自分に与えらた良いものを自分の中に留めてしまうのではなく、神に返すべきものは神に返し、人に与えるべきものは人に与えていく者になることです。例えばその最も分かりやすい例のひとつが献金です。私達に与えられている収入の十分の一は神に返すべきものですから、それを返す忠実な僕になりましょう。お金のことを忠実に管理できない者に、それ以上の富や大切なものを管理させて、祝福を与えることを神様はしません。別の面から見れば、もし富が何よりも大切になっている人には十一献金は困難なことになりますが、主が主人となっているスチュワードシップをしっかり持っている人には、いとも簡単に出来ることになります。その意味で献金は、私達が忠実な良い僕として生きているかどうかを計る試金石だということが出来るのです。

 第二にどんなことでもまず神様を第一にするということです。例えば一週間の最初の日は主の日として聖別し礼拝することです。また一日の最初の時間に主を礼拝するデボーションを捧げることです。このように常に主を第一にし、主の導きに従う習慣を身に着けることによって祝福されていきます。

 第3に種まきと刈り取りの法則に従ってまず与える人になることです。ルカの福音書6:38には「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」とありますが、私達が主から預けられた良いもの(愛・憐れみ・賜物・お金・時間など)を忠実に管理し、与えていくならば、つまり良い種まきをしていくならば、必ずその何倍もの祝福の実を刈り取ることになるということです。以上の事柄を実行していくとき神に祝福された人生となるのです。