2014年3月

「幼子のような信仰に徹して生きよう- 2」

「主は羊飼いのように、その群れを飼い、 御腕に小羊を引き寄せ、
ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。」  イザヤ40:11

1日間の沖縄宣教旅行は、皆さんの執り成しの祈りに守られて、とても祝福された旅行となりましたので、そのことを少し報告させていただきたきながら、今年の年間聖句の約束を味わいたいと思います、また幼子のような信仰に徹していくことについて前回の学びに付け加えて書きたいと思います。
 
 今回の旅行では幾つもの神様からの恵みを体験しましたが、其の一つめは天候でした。成田からの出発に合わせて、東京地方が雪に見舞われるとの予報を聞いて、雪を避けようと8時間ほど早く静岡を発ったのですが、それが果たして正解でした。その日の羽田発の飛行機は雪のためにほとんど欠航となりましたが、成田は雪とはならず、無事に沖縄に向けて飛び立つことができました。実はその時に私は必死に雪にならないように祈りました。すると成田は最初は雪でしたが、いつの間にか雨に変り、無事飛ぶことができたのです。この恵みを皮切りに、沖縄滞在中、観光地をめぐるときには一度も雨に見舞われることなく、いつも良い天気に守られて過ごすことができました。また二つめに神様は私達のために、一石二鳥や三鳥になる宿泊施設を用意してくださいました。宣教師や牧師のための休養施設として作られた一戸建ての建物を借りることができたのですが、自然に恵まれた静かな場所で、しかも沖縄での活動範囲の中心に位置する最適な立地でした。自炊もでき、私達夫婦と義母がゆったり滞在できるのに充分な広さと設備のある宿泊施設でした。そして三つ目は、適度な奉仕の機会が複数回与えられ、疲れすぎることなく奉仕でき、その奉仕も祝福されてとても喜ばれました。四つ目はこの旅の目的の一つだった家内の心の癒しと霊的リフレッシュが出来たことでした。また家内の付き添いとして同伴してくれた高齢の義母の健康も守られ、90歳にして初めての飛行機による沖縄旅行を無事に終えることができました。このようにして、羊飼いなる主は文字通り私達を飼い、ふところに抱き、恵みをもって今回の旅を導いて下さいました。そういうわけで、今回ほど主のご愛と優しさを感じた旅はありませんでした。

 幼子のような信仰に徹していく中で、私達が御言葉の約束を信じて飲み続けていくとき、その信仰は私達の腹の中で、確信をもたらします。そしてその確信は奇跡を産み出す導火線の役割をするものとなります。12年もの間長血の病気で苦しんでいた女性が、イエス様の衣のすそに触ることができれば必ず治ると確信した信仰は、癒しの奇跡を産み出しました。強い確信に満ちた信仰が数々の奇跡を産み出したエピソードが聖書に書き記されていますが、私達の信仰もそれらの例に見習って奇跡を産み出す信仰を目指していこうではありませんか。神様から恵みと祝福を得るために熱心に祈りましょう。愛する家族の救いを確信して、また愛する静岡のリバイバルを確信して、また愛する日本のリバイバルを確信して祈りましょう。

2014年2月

「幼子のような信仰に徹して生きよう」

「主は羊飼いのように、その群れを飼い、 御腕に小羊を引き寄せ、
ふところに抱き、 乳を飲ませる羊を優しく導く。」  イザヤ40:11

昨年末の断食祈祷聖会で、主は2014年の年間聖句として上記の聖句を与えて下さいました。その御言葉を読みながら、今年も羊飼いなるイエス様が喜んで私達の群れを飼って下さること、特に弱い小羊はふところに抱いて運び、その他の羊達は優しく導いて下さるという約束をして下さって、本当に安心の思いに満たされたのですが、同時にこの御言葉を黙想していく中で、主が望んでおられることが分かってきました。
 それが「幼子のような信仰に徹して生きなさい」ということでした。そのきっかけを与えられた御言葉は小羊ということばでした。小羊とは幼子ということです。そこから幼子とはどのようなものだろうかと考えさせられたのです。そして主が望んでいるものが幼子のような信仰なのだということが見えてきたのです。そこで今年は幼子のような信仰に徹して生きることを目指していきたいと思います。

 幼子のような信仰とは、第1に素直に単純に疑わずに信じる信仰です。大人は素直ではありません。複雑です。そして全てを警戒して疑ってかかります。そのような思いをもって主の御言葉と対峙することを主は喜びません。大人の分別や知恵を捨てていきましょう。
第2に自分の弱さや愚かさを認めて、いつでも親にしがみついて助けを求める信仰です。大人はパフォーマンスし、自分の弱さを隠して無理してよく見せようとする生き方ですが、そのような必要なありません。私達は弱さを誇る生き方でいいのです。
第3は祈りの中で聖霊の声に聴従する信仰です。幼子はいつでも親の声だけに集中して生きています。親の声だけが自分の命を守る生命線だと知っているので、親の声だけを聞いて、ほかの人には決してついていきません。羊も羊飼いの声だけを聞いてついていきます。私達も内なる聖霊の声・そして御言葉の声だけを聞いてついていきましょう。
第4は本音でぶつかっていく信仰です。偽善的信仰は主を悲しませるものです。本音と建前を区別して生きてきた私達は、主の前でもそのようにしてしまい、本音を隠して主と交わろうとしてしまう危険があるので気をつけましょう。直心(本音)の祈りを捧げて、主にぶつかっていくとき、主は本音で答えてくださり、助けて下さるのです。

 第5は御言葉の約束をしっかり飲み込んで栄養にする信仰です。多くの人が御言葉を表面的に聞いているだけで暗記していません。またその御言葉の意味をしっかり味わって、信じて飲みますとは言っていません。そのために本当の意味で御言葉がその人を支える力になっていない人がいます。御言葉の約束は何度も繰り返して味わい、信じて飲み込み続けるとき、内なる確信となって力がそこから湧き上がってくるのです。愛と力を下さいといいながら、実際には飲んでいないで空回りする信仰生活は止めましょう。御言葉のご馳走をしっかり飲んで食べて、腹の底から湧き出る愛と力をいただきましょう。

2014年1月

「新年を迎えて」

2014年を迎えるための霊的準備のために三日間の断食祈祷に行ってきましたが、そこで主が私に語られたことを分かち合いたいと思います。今回は坐骨神経痛がひどくて、とても落ち着いて、集中して祈ることができるかどうか心配していましたが、その痛さがかえって、私を切実な癒しを求める祈りに追いやることになり、その結果、主のご臨在に触れ、はっきりとした御言葉の導きを受けることができました。

 足の痛みは特に朝起きた時にひどいのですが、そのような状態の中で、毎朝辛いのはもうたくさんですから癒してくださいと切に祈っていました。そうした中で、私は癒しに関する約束の御言葉を思い出し、マルコの福音書の最後の宣教命令の御言葉を見たのですが、その御言葉を読んだ時に、非常に強い臨在の中に、私は導かれました。そしてイエス様があたかも、私の目の前に立って、直接この御言葉を私に語っているように感じたのです。その御言葉がこれです。

 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。ーマルコ16:15〜18

 私は24日の伊勢崎のクリスマスイブコンサートを終わって、真夜中に静岡に帰ってきて、寝不足のまま断食祈祷に行くというハードスケジュールだったので、とても疲れていました。その上で足の痛さも加わっていたので、もう34年間足りないながらも充分働いたので、どうかもうお役ごめんにして下さって、永遠の安息に入れてくださいという弱音を吐く祈りをしていましたが、そのような私の目を覚ます御言葉が迫ってきたのでした。そして主は、まだまだお前には福音を宣べ伝える使命があること、そして色々なしるしを表してくださること、またお前の足の病も癒すのだということを語ってくださったのです。そしてそのことを固く信じなさいと諭して下さったのです。

私は今まで、目の前にイエス様が立って、直接御言葉を下さるという臨在体験をしたことがなかったので、とてもインパクトの強い体験でしたが、このことによって、私の新年への霊的備えが完全に整ったのでした。さて、皆さんは、新年を迎えてどのような霊的備えをすることができたでしょうか、皆さんも私と同じように主から御言葉を示されて、使命の再確認をしたり、新たなビジョンをいただいたりして欲しいと思います。私達は皆クリスチャンとして、神様から重要な使命が託されています。共にその使命を果たすために、新年も自分を捧げ、自分の肉の思いを十字架につけて、聖霊の思いに満たされて進んで行きましょう。

2013年12月

「クリスマスシーズンを迎えて」

世界的脳外科医であるエベン・アレグザンダーさんは、自分自身が死の病から奇跡的に回復する過程で体験した臨死体験によって、それまで信じていなかった死後の世界の存在を信じるようになりましたが、その一部始終が「プルーフ・オブ・ヘブン(天国の証明)日本語版」という本に書かれて、全米で200万部を超えるベストセラーになっているそうです。実は今までも臨死体験の本が多数出版されてきましたが、今回の本はその中でも死後の世界の存在を強力に証明する決定的な本の一つになるのではないかと思います

伝道するときに困るものの一つが、死後の世界は良く分からないから信じられないというものです。大体の人たちは死んだら天国にいけるとか、先祖の一人になって子孫を見守るようになるとか言いますが、実際のところは死後の世界を信じていなかったり、分からないという人がほとんどです。そのような人たちに、聖書が言っている死後の裁きとか地獄、イエス様を信じなければ天国にいけないといっても分かってもらえません。ですから伝道の際には、死後の世界があるということをまず理解してもらう必要があります。その点でとても役に立つ本かなと思いますので活用してくれたらいいなと思います。また私達クリスチャンでさえも、場合によって観念的に天国と言うものを捉えているだけで、天国の具体的な実在感や、天国へいけるという実感があまりないという人もいると思います。そのような人は、この本を読んで天国の実感を強く持っていただき、救われていることを心から感謝するときにしていただけたらと思います。

さて今年も12月となり、クリスマスシーズンを迎えました。今年のクリスマスを皆さんはどのように迎えようとしているでしょうか。教会ではすでに、恒例のクリスマスチャペルコンサートが行なわれ、多数の未信者の方々を迎えてイエス様の降誕をお伝えする恵みにあずかりました。そして更にクリスマスの伝道イベントが続きますが、皆で協力して家族や友人にクリスマスの意味を伝えていきましょう。クリスマスは教会が一年で最も市民権を獲得できる時ですから、この時を有効に用いて、集会に誘ったり、証ししていきましょう。またクリスマスの精神を実行していきましょう。その精神とは与える精神です。神様が私達のために御子イエス様という素晴らしいクリスマスプレゼントを贈って下さいました。ですから私達も愛する人々に愛を贈るのです。もしかしたら上記に紹介した本などをプレゼントにして贈るというのも面白いかも知れませんね。

しかしこの時期に私達が最もすべきことがあります。それは、私達がこの素晴らしいクリスマスプレゼントを心から味わい、喜び、感謝し、神様を賛美し、神様に栄光をお返しするということです。そのために、例えば、この時期に、イエス様の全生涯を福音書を読むことを通して、再度心に焼き付けるということをしていきましょう。私達がイエス様の完全な愛の献身によって救われたことを受け取り、この素晴らしい愛にこたえて私達も再献身していくことが、神様のクリスマスプレゼントへの感謝のお返として最もふさわしいものだと思います。

2013年11月

「初孫を与えられて思うこと」

私は初孫を今年の8月に与えられましたが、其の孫を見ながら、人間の赤ん坊は本当に無力な存在として生まれるものだなと思わされました。      
動物の中で人間の赤ちゃんほど何もできない存在で生まれてくるものはないと言われていますが、そのような無力な存在にとって、絶対に必要なものが無条件の親の愛です。其の中でも特に必要不可欠なのが母性愛です。母が全ての世話をし、赤ん坊の命を守り育てようとする愛がなければ、赤ん坊の命は生き延びることができません。  

 現在、無力な孫娘は、母親の無条件の母性愛に守られて、人格の成長に必要不可欠な対人関係における基本的信頼感の絆という土台作りをしながら、少しずつ成長していますが、この時期に母性愛を充分にもらえず、人間に対する基本的信頼感を持つことができなかった、多くの傷ついた魂がいることを思わずにはいられません。

  私自身も赤ん坊の時に、充分な母性愛をもらうことができずに育ち、人格の核の部分に人間に対する基本的不信感と見捨てられ不安が植えつけられてしまい、その後の人格形成において大きな困難を抱えるものになってしまいました。しかし、そのような傷ついた私の心も、主は癒してくださいました。其の方法は肉の母の不足した母性愛を、天の神様の母性愛で埋めて下さるという方法でした。イエス様の十字架の愛が母性愛だと教えて下さったのです。十字架の愛が無条件の受容と共感と守りの愛であり、自己存在を肯定する完全な母性愛だと言う気づきを与えて下さり、その愛を小さな私の赤ん坊の心の中に満たしてくださったのです。

現在のプロテスタント教会に最も欠けているものの一つが、天の神様の母性愛のメッセージではないかと思います。どちらかと言うと天の神様の父性愛ばかりが伝えられていて、本当の慰めと癒しと平安をもたらす天の母性愛のメッセージが弱いのではないかと思います。心に本当の安心と信頼の思いをもたらし、神様への強い信仰をもたらす愛はなんと言っても十字架の母性愛が第一です。もちろん全能の父なる神様の父性愛への信頼も大切ですから、私達はこの両方の愛をしっかり神様からいただいて、力強い信仰の勇者になることを目指して行かなければなりません。そして人々に仕える弟子にならなければなりません。パウロもTテサロニケ2:7〜12の中で、主から与えられる母性愛と、父性愛の愛に満たされて信徒達に仕えたとあります。私達も彼の両方の愛に満たされた信仰の歩みを見習って歩んで行きましょう。

2013年10月

「境界線の学びの重要性」

   先週は長野の教会のセミナーで、境界線の学びをさせていただきましたが、其の反響はとても大きくて良いものでした。今回のセミナー参加者の感想の一部を紹介しますと、「私は人格の境界線がよく分かっていなかった。」「私は正しい境界線を引けないで今まで生きてきたことが分かった。」「自分は今まで迎合的な人、回避的な人だと思っていたが、支配的な人・無反応な人でもあるということが分かって愕然とした。」「相手を変えるのではなく自分が変らなければいけないことがよく分かった。」というようなものでした。
 
 参加者のほとんどが境界線の問題を抱えて生きていることが分かってくれたこと、またその結果、正しく愛することができていないのだということが分かってくれたので、とても有益な学びとなりました。そしてセミナー後の個人カウンセリングでも、間違った境界線を引いて生きている様々な原因を一緒に探って、取り除く作業ができたので、とても実りある時となりました。

 例えば其の原因をあげると、メシアプログラムが強くて奴隷的に仕えてノーといえない人、また様々な恐れにとらわれているためにノーと言えない人、そうかと思うと、自分の思い通りにしたくていつも支配的になってしまい、人のノーを受け入れない人、不安が強くて、どうしても依存してわがままな行動をして、人の境界線を越えてしまう人などでした。往々にして、これらの問題の根本原因には、子供時代の育てられた環境に問題があり、親から正しい境界線を教えられなかったことや、偏った育てられ方をしたり、トラウマなどの傷つき体験があったりするのですが、その原因を一つ一つ掘り下げて取り除くことができたので、夫々の人に大きな癒しと解放が与えられました。

さて、愛する皆さんも正しい境界線を引いて、愛し合うことにチャレンジしていますか。イエス様がヨハネの福音書の遺言的説教の中で「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と言っていますが、正しく愛し合うためには人格の境界線を知らなければなりません。そして其の境界線を尊重し、互いに傷つけ合わないようにしていかなければいけません。その場合の大原則が、まず自分を愛し傷つけないようにする境界線を身に付けると言うことです。自分を傷つけておきながら、人を愛することはできません。自分の基本的人権を尊重し、同時に他人の基本的人権を尊重することができるようになった人が、正しく愛し合うことができる人になれるのだということを、しっかり認識しましょう。

2013年9月 

「映画・少年Hを見て」

敗戦記念日にかけて、この映画が封切られたので見てきました。内容がクリスチャン家庭が戦前から戦後にかけてどのように生きてきたかを証しする映画だと聞いたので見たのですが、果たしてそのような内容でした。どうぞ、皆さんもぜひ見に行ってください。

 作家の妹尾河童の自伝的小説ですが、妹尾家は両親が熱心な信仰者だったことから、其の当時の日本では敵国の宗教を信じているということで白い目で見られながら、生きずらい日々を送っていた様子が、リアルに描かれていました。価値観がころころ変る日本において、神様を信じて、一貫した生き方を貫く姿に学ぶところ大でした。同時に日本という国が天皇を神とする偶像礼拝国家を築いてきた愚かさが浮かび上がってくる映画でした。

 このような映画を見て、多くの人がキリスト教に好感を持ってくれたら良いなと思わされました。これに重なってNHKの大河ドラマの「八重の桜」もいよいよ新島襄が登場し、八重がクリスチャンとなり、女性解放の旗手となっていく姿が描かれるようになりますが、このドラマも日本人のキリスト教への好感度のアップにつながってくれればと期待しています。神様が日本を憐れみ、影響力の大きい映像メディアを使って働いているような気がしますので、これらが日本の福音化のために用いられるように祈りましょう。また皆さんもこの機会を活用し、伝道と証しのためにこれらを上手に用いていったらいいと思います。

 敗戦国日本の敗戦の原因は、天皇を偶像化し、植民地争奪戦争に参加していった日本の貪りの罪にあります。主が最も忌み嫌われる罪こそが、自分の貪りのために偶像を作り利用することです。真の創造主なる神を無視し、自分を神国の民として位置づけ、おごり高ぶり、侵略戦争をしていった国に対して、神が天から裁きを下されたのです。そしてもう一度聖書的価値観を反映させた新しい日本国憲法を作ってやり直すチャンスを日本に与えてくださったのです。それにも関わらず、そのような主の御心に反して、日本国憲法を再び天皇を元首として、崇め祭るものに変えようと自民党やその他の政治家達がうごめいています。このままでは日本は再び偶像礼拝国家に逆戻りしていく危険があります。それでなくても日本人はあまりに多くの偶像を拝み続けています。真の神を無視し続け、神の怒りのメーターの針を上げ続けています。従ってこのままでは日本は神の怒りによって聖絶されてしまうことでしょう。

私達クリスチャンだけが、この日本の罪を正しく認識し、執り成すことができる者たちです。ですから共に日本の罪を執り成し、主の憐れみがこの国に注がれて、救われるように祈りましょう。同時に救われていない家族が救われるように祈りましょう。そして聖霊の満たしを求めて祈りましょう。なぜなら私達が聖霊に満たされて、主の道具となって用いられていくときに私達の家族や友人が主の元に導かれてくるのですから。

2013年8月 

夏の修養会の恵み

今年から修養会を復活しようという事になって、二日間の修養会が富士山麓山の村で行なわれましたが、やってみてとても良かったなと思いました。主の導きの中で今回は城山教会との合同での修養会という形になりましたが、富士山麓の緑豊かな涼しい環境の中で、二日間の密度の濃い学びと交わりができて本当に感謝でした。

 今回は「境界線」をテーマにした学びと分かち合いの時を合計3回持ちましたが、講義後の分かち合いの時には、活発な話し合いがもたれ、お互いに祈り合うことができ、執り成し合う時がもたれました。参加者の多くが境界線に関する学びを通して、自分が正しい境界線を引けていなかったことを自覚し、その原因を探り合い、矯正し合うことが出来ができましたので、これが新たな出発点となって、皆が正しい境界線を引きながら愛し合う関係を更に築いていくことができるのではないかと強く思わされました。

 私自身が取り扱われた恵みを少し書いてみますと、同じグループのS姉が自分の3才までの幼少期に、とてもわがままに育てられたことによって自己中心的な間違った境界線ができていたことに気づかされ、その間違った境界線の故に、夫に対して支配的な態度を取ってしまって、傷つけているということを悔い改めて、わがままで支配的な心の皮袋を手放す祈りをしたのですが、その姉妹の話を聞きながら、私自身にも同じような問題があることに再度気づかされ、同じように悔い改めと間違った境界線を再度捨てる祈りができたことが感謝でした。S姉の証しは更に用いられて、同じような心の構造を持っている人へ気づきとなったこともあったので、とても感謝な証しでした。

 今回の修養会は、城山教会のHさんが集会の模様をDVDに収録してくださったので、見ることができます。ですから今回参加できなかった方々は、配布したレジメとDVDを見ながら境界線についての学びをしっかりしていただければと思います。私達は主から「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」と命じられていますが、その命令を実行するためには、どうしてもこの境界線jの学びが欠かせません。どうか学んでない方はしっかり学んで、正しい境界線を引ける人格に成長していきましょう。

 ここ何年間か、主の導きの中で、城山教会との姉妹関係が築かれてきましたが、今回はその流れの中で、合同の修養会が開かれ、教会の枠を超えての親しい交わりができたことは、お互いにとってとても良い刺激になりましたので、来年もこのような修養会をまた持ちたいと思います。今回都合によって参加できなかった方々も、ぜひ来年の修養会には参加しましょう。そして大自然の恵みと、霊的恵みの両方をいただいて、リフレッシュしましょう。

2013年7月

東北地区巡回伝道旅行の報告

8日間、夫婦交代で約二千`を走破しての東北一周巡回伝道旅行となりましたが、事故もなく、健康も支えられ、各地でとても有意義な奉仕と交わりの時が与えられて無事に帰ることができました。皆さんの背後での執り成しの祈りのお陰です。ありがとうございました。
 最初の奉仕は栃木県のおもちゃのまちの婦人ランチョンでしたが、70名近くの方が集められ、多くの未信者の方々も参加してくれての会となりました。私の歌と証しと福音のメッセージに興味深く耳を傾けてくれてとても喜ばれました。それから仙台の甥の所で一泊し、まだ信仰を持っていない甥に対する証し伝道の機会が与えられました。そして次は石巻の教会でのボランティアの働きでしたが、皆さんの捧げてくれた義援金を渡すことができ、とても感謝されました。またインナーヒーリングの必要な男性信徒の方との出会いがあり、カウンセリングミニストリーによって助けることができました。そしてその後、弘前での奉仕に向かうために、三陸海岸を北上して被災地をつぶさに見学しながら盛岡までドライブしました。しかしそこで見た光景はとても心に痛みを感じるものばかりでした。海岸地帯はどこでもひどい被災の爪あとが、いまだに生々しく残されていました。復興がまだまだほとんど進んでいない状況を見て、とてもがっかりし、行政に対する失望感に満たされました。石巻の先生は、ある程度時間が経って、被災地の記憶が忘れ去られようとしているのが寂しいといっていましたが、被災地の状況を見ると、またまだ助けが必要なことを痛感させられました。これからも引き続き支援活動をしていかなければと思わされました。
 盛岡から一気に高速道路を飛ばして弘前までいきましたが、弘前の町を見学して思わされたことは、本当に日本一のりんごの里だという実感でした。どこまでもリンゴ園が続き、市郊外はリンゴ園ばかりでした。秋田県境をまたいで二つの教会で土日の3回の礼拝奉仕と聖会奉仕が与えられましたが、そこでは始めての方々、求道中の方々、長年信仰を守ってきた年老いた方々、青年の方々など集まって下さって、とても楽しく有意義な交わりの時が与えられました。また感謝だったのは、その教会の牧師先生一家との交わりが与えられ、特に牧師先生とは個人カウンセリングの時が与えられ、癒しと変革の恵みが与えられ、地方で苦労しておられる先生を励ますことができました。

二日間の弘前での奉仕を終えて、私達は今回の最後の奉仕地である山形県の酒田市に向かいました。そこでは開拓伝道中のまだ若い牧師夫婦との交わりの時が与えられました。開拓伝道に苦労しているその姿を見て、かつての開拓伝道で苦労したときの記憶が蘇ってきました。色々な情報交換をし、経験談を交えて励ますことができましたが、彼らがキッズブラウンを私達に先駆けて行なっていたので、その経験を聞くこともできてとても助かりました。その後、酒田でのもう一つの教会の奉仕に向かいましたが、その教会の先生はすでに74歳の高齢で、奥様は腎臓病で透析をしながら伝道しているという牧師先生でした。午後と夜の二回の伝道集会が持たれましたが、近隣の教会の信徒さんや、牧師先生たちも集ってくださり、幸いな集いとなりました。特にその先生の中のお一人が、来年ぜひうちの教会に来てくださいと言って下さったので感謝でした。

2013年6月

古い衣を脱ぎ捨てて

衣替えの季節がやってきましたが、先日のエリヤハウスのサンフォード先生の基調メッセージの中にとても面白い例話が語られていました。それは私達の霊的成長は霊的ストリップの作業だと言うのです。世俗的にはストリップは卑猥な意味の言葉ですが、彼はそれをもじって、私達の心は何枚もの罪深い古い衣を着ているということと、その衣を一枚一枚脱いでいかなければならないということ、つまり古い衣を脱いで裸になればなるほど、私達の中にある聖霊の命が現れてくるのだと言っていました。

さて、皆さんは今まで、信仰を持ってからどれだけの古い自我の衣、罪の衣を脱いできたでしょうか。中国の偉大な霊的指導者の一人だったウォッチマン・ニーも似たような霊的真理を説いています。彼は外なる人(肉の人・自我の命)が砕かれなければ内なる人(霊の人・聖霊の命)が現れてくることはできず、クリスチャンは肉に属する人として、主に用いられる人にはなれないと言っています。聖霊の命はもうすでに信じた私達の中に内住していますが、その命が外側に現れてくることを妨げている肉の衣を見つけて脱ぎましょう。

それではどのような肉の衣があるでしょうか。まず第一に挙げられる肉の衣は「肉の貪りを満たす夢・目標」です。私もかつてはオペラ歌手になって、この世的成功を勝ち取りたいと思いましたが、そのような醜い肉の夢を捨てて、聖霊様が示して下さった静岡宣教・日本宣教という新しい霊のビジョン(志)を持ったときから、私の内側にいつも聖霊の力が供給されるようになりました。あなたはどのような肉の夢を持っているでしょうか。ぜひその夢の衣を脱ぎ捨ててください。そして主の栄光を表すためのビジョンを実現する器になれるように自分の人生を捧げて下さい。
  次に挙げられる肉の衣は、傷ついた心が生み出した様々な古い価値観(衣)です。その中でも最も大きな妨げになるものが、不完全な肉の両親から埋め込まれた間違った「親のイメージ」の衣です。歪んだ母性と父性のイメージを埋め込まれた人は、天の神様の母性愛と父性愛を正しく理解することができません。そのために天の神様の愛と力を信頼して歩むこと(信頼の衣を着ること)ができない人になります。また不完全な親から埋め込まれた自分自身に対する間違った否定的イメージも脱ぎ捨てましょう。更に多くの自己保身・自己防衛の衣、人間不信や恐れ、不安の衣、自惚れや高ぶりから来るプライドの衣等も脱ぎ捨てましょう。エリヤハウスでは子ども時代に作られた内なる誓いと石の心を取り除くように勧めていますが、これらもみな古い衣です。また染み付いた悪習慣の衣や憎しみや怒りや裁きなどの苦い根も同時に引き抜いて捨てていきましょう。

私達は思っている以上に古い衣を沢山着て生きてきましたが、それらの肉と罪の衣を脱ぐように聖霊様は働いておられます。ですからその衣を脱ぐように示されたなら、告白と悔い改め、赦しの祈り、古い衣を十字架に付ける祈りによって脱ぎ捨てていきましょう。そして裸になって、聖霊様の命が現れる御霊に満たされた主の弟子になりましょう。

2013年5月

「映画リンカーンを見て」

 今年度のアカデミー主演男優賞を取った映画「リンカーン」を先日見てきましたが、とても心に残った映画でした。リンカーンは歴代のアメリカ大統領の中で最も尊敬されている大統領ですが、その秘密の一端を垣間見させてもらえる映画でした。

 彼の最大の功績として残る奴隷制度廃止に関わる憲法改正に成功したアメリカ議会での生きずまる攻防戦を再現した映画でした。南北戦争の最中、リンカーンは奴隷制度廃止と言う最も困難な仕事をやり遂げましたが、そこには彼の揺るぐことのない聖書的価値観に裏打ちされた信念が表現されていました。黒人奴隷の人権を回復することが創造主なる神の御心であることを信じて、その当時の偏見や社会制度を打破しようと勇気を持って立ち向かい、成功した彼のリーダーとしての姿がそこにありました。

 残念ながらこの世の多くの人は、人や世間の評判を恐れたり、社会通念だということで、自分の正しい信念を曲げて妥協しながら生きてしまうことが多いのではないかと思います。リンカーンも自分に襲い掛かってくる世間からの批判や中傷に苦しめられ悩んでいた様子が映像化されていましたが、彼はその様なものに屈してしまうことなく、主から与えられた大統領としての使命を最後まで果たし、人類史上に偉大な業績を残しました。私は同じクリスチャンとして改めてリンカーンを尊敬する気持ちにさせられました。

 私は映画を見てから、改めて自分のありようを振り返させられましたが、まず第一に思わされたことは、自分自身も神様から与えられた同じ価値観を共有することができていることに対する感謝の思いでした。現代でも残念ながら偏見や差別は世界中に残っていますが、そのような偏見や差別意識から解放されている自分を確認できたことです。次に思わされたことは、果たして自分はリンカーンのように人や世間体を恐れず、神を正しく恐れて生きているだろうかという問いかけでした。そこで発見したことは、やはり自分の中にまだまだ人を恐れる気持ちがどこかにあると言うことでした。

「人を恐れると罠にかかる。しかし主に信頼する者は守られる。(箴言29:25)」

という御言葉がありますが、人を恐れると自己保身に走り、安易な妥協をしたり、ノーと言えなかったりしてしまいますが、その背後には主が守ってくださることに信頼しないで、自分の身を自分で守ろうとする不信仰な心が働いています。私達はこのような弱さや不信仰を克服して、人を恐れることなく、福音の証し人として前進していきたいものです。そのためにはもっともっと聖霊に満たされることを求めていかなければならないと思います。聖書は「神が私達に与えてくださったものは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です。(Uテモテ1:9)」と言っていますから、聖霊に満たされることを求めていきましょう。そしてリンカーンの足跡についていきましょう。

2013年4月

「新年度の主の導きを信じて」

「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変らぬ愛はあなたから移らず、
   わたしの平和の契約は動かない。とあなたをあわれむ主は仰せられる。」 イザヤ54:10

 今年の4月で私達の教会は開拓28周年を迎えますが、今までのことを振り返ると上の御言葉が胸に迫ってきます。 色々な困難な出来事、山や丘が動くことがありましたが、神様の変らぬ愛とあわれみが移リ去って、見捨てられてしまうことはありませんでした。自分の弱さゆえに数々の失敗や罪を犯してしまいましたが、そのせいで見捨てられことはありませんでした。その度に悔い改めへと導き、赦してあわれんで下さり、失敗の尻拭いをして下さいました。 文字通り主の平和の契約の約束はびくともしませんでした。

 主の契約とは上位の者(神)が下位の者(人間)に一方的に結んで下さった守りと恵みの契約(デイアテーケー)です。 この契約の締結において誓いを立てて下さったのは神様お一人だけでした。もし普通の契約(スンテーケー)のように当事者が二人して誓う契約だったなら、一方の当事者である人間が罪人であるために、この契約は不安定なものとなり、あっという間に人間の不誠実のために契約は破棄されることになったでしょう。しかし憐れみ豊かな神様は私達が弱いこと、罪深いことを知っておられ、ご自分だけが契約の誓いをされる契約を結んで下さったのです。その誓いの儀式として主がして下さったのが、イエス様の十字架の血による誓いだったのです。契約に必要な全ての手続きをご自分で成し遂げて下さって、発効させて下さったのです。これをへブル書では「遺言(デイアテーケー)」と訳して使っていますが、まさにイエス様の命をかけた遺言的契約を発効させて下さり、それからはこの契約が決して無効にならないように保っていて下さるのです。

 そして、文字通りこの「平和の契約」の約束に従って、主は今まで私達に対して誠実を尽くして下さり、私たちをどこまでも守り導き、赦し受け入れ、哀れみ続けて下さいました。そして神の愛の大きさ、深さ、広さ、高さがいかに素晴らしいものであるかを教え続けて下さったのです。この事実から導き出せる結論は、今までそうしてくださった主がこれからもそのようにしてくださると言う将来への安心と希望です。

 愛する皆さん、ですからこの御言葉の約束を信じて、新年度も恐れることなく、雄雄しく歩んで行こうではありませんか。主の守りの御手が常に私達の上にあります。私達がこの恵みの契約の素晴らしさをこれからも味わっていくために求められていることは悔い改めと信仰のみです。ただへりくだって信じていくことだけなのです。これからも私達は弱さの故に失敗や罪を犯してしまうことでしょう。その度に悔い改めてへりくだりましょう。そして主の赦しとあわれみを受け取り、主を信じ、主の尻拭い的助けを図々しく求めていきましょう。