12 問題発言!!「浜」と「渚」?(2004年掲載分)  コラムの目次に戻る  ホームページのトップに戻る

 先日の夜に何気なく新聞に目を通していましたら、庄内の釣り文化に関する事が某大学での講義に特別講師を招待して実施されたとの事であります。
 私は興味を持ってその新聞の内容を読み始めましたが、私の期待とは裏腹な内容に、複雑な心境になってしまいました。
 
 この新聞報道によると、この講師の事を、砂浜で黒鯛を釣る渚釣りを最初に考案した第一人者であると紹介していました。
 庄内では50年も前から砂浜で黒鯛を釣る釣法「浜釣り」が確立されていましたから、渚釣りとは、この「浜」を「渚」に名称を変えただけの釣法の様な気がします。
 少なくとも、庄内といえば、江戸の時代から伝わる磯釣りのメッカです。
この庄内で育まれた磯釣りの釣法を庄内の独特な釣法として、今の時代に受け継ぎ、そして庄内釣法としての伝統の火を灯し続けてきたのは、誰でもなく庄内藩に縁のある純粋な庄内の人間であり、更には庄内藩の流れを汲む鶴岡に住む釣り人達でありました。
 
 庄内釣法をこよなく愛し、昔から伝わる武士道からくる釣りの極意は、釣果だけを求める様な安っぽい釣りではなかったはずでありますから、その釣技を今に伝え続けてきたのも鶴岡の釣り人(竿師も含めて)達であったと思います。
 ところで、この浜釣りのルーツを探りますと庄内の海岸でも北に位置する湯の浜がクローズアップされます。
 この湯の浜には低く広い岩場である「長磯」があります。昔は名場としてあまりにも有名でしたが、この長磯を中心にここら一帯をホームグランドとして昔から活躍していた地元湯の浜の著名な磯釣りクラブがありました。

 このクラブに所属して間もない若いメンバーにとっては、磯場での黒鯛釣りが多少難しい事もあり、危険も伴ったために、磯釣りに慣れるまでの間は、黒鯛を砂浜で釣る通称「浜釣り」をトレーニングとしてやらせていた経緯があります。
 この浜釣りは、磯釣りの黒鯛をターゲットとする釣り人から見れば邪道視されていた部分もあり、釣り大会などでは浜で釣った黒鯛は軽視されがちだった為に、大会の釣果としては恥ずかしい事として出品しない釣り人もいた程なのです。
話は戻りますが、この浜釣りの釣法が確立されてから相当の年月が経過した時期に、鶴岡の隣町である温海から「渚釣り」なる名称での新釣法が突如として誕生したのであります。


 温海から「渚のクロダイ釣り」の名称で急に誕生した新釣法には、やや戸惑いを感じた庄内(鶴岡)の釣り人も少なからずいたと思います。
 しかし、この新釣法の誕生に対して、鶴岡の釣り人はクレームをつける事もなくその成り行きを比較的静かに見守ってきたのが実状だと思います。

この新釣法に「渚のクロダイ釣り」との名称をつけた事が良かったのかも知れません。 仮に「浜のクロダイ釣り」が温海で初めて誕生した釣りであるとマスコミなどが報道するような事があったならば、「それはもともと庄内にはあった釣りである」などとの意見や反論が出てきますから、何らかのトラブルが発生したと思います。
 しかしながら「浜釣り」が「渚釣り」に変わった事により、耳障りも良く上品な釣りの様に感じてしまい、一般的には浜釣りとは違う釣りのように思われてしまう様です。 
名称ひとつの違いで、その訴求力が大きく異なるものですから、名称とは不思議な力を持つものだと改めて感じます。

 この「渚釣り」の名称が全国的に広まったのは、今から約25年ほど前に出版された一冊の釣りの本による影響が非常に大きかった思います。
 この本を出版した編集責任者は、知る人ぞ知る、当時では有名な投げ釣りの名手で某メーカーの契約プロでもあったS氏でありました。
 このS氏が国内において売れる釣りの本を出版する為の戦略として、当初は各地の釣法とポイントを網羅した釣りの本を出版計画していたのですが、渚でクロダイを釣る釣法を知り、これをメーンとした本の方が奇抜であり面白いと思ったのでしょう、急遽路線を変更してこの「渚釣のクロダイ釣り」のタイトルが表紙を飾る事になったのです。
 この「渚釣り」に原稿を投稿したのが、後に渚釣りで評判となる温海の釣りクラブの某氏であります。
 
 昔から、鶴岡の湯の浜地区の他にも、国内には砂浜からクロダイを釣る一風変わった伝統的な釣法などがありましたが、当時から延べ竿に太鼓型リールを取り付けて、砂浜の波打ち際からの払い出しに仕掛けを流し込んで釣るフカセ的釣法は、やはり庄内の湯の浜地区独特の釣りであったと思います。
しかしながら、この釣りが湯の浜で始まってから30年以上も経過した頃になり、国内各地で渚釣りとして人気が出始めたのは、「渚のクロダイ釣り」が出版された事が最大の要因であると思います。

 湯の浜地区において昔盛んに行われた初期の浜釣りにおけるタックル(釣具)と言えば、竿は言うまでもなく竹製の庄内竿を用いていた訳ですが、竿の長さは平均で3間半(6.3m)の物を主に使っていたらしく、初期は太鼓型(両軸受けリールも含め)のリールが存在しない時代であったために、竿にリールはつけないで、竿先に釣り糸(ミチイト)を直接結びつけたままの状態であったらしいが、仕掛けの釣り糸は竿より一尋(約1.5m)から一尋半(約2.3m)ほどの馬鹿(釣り糸が竿より長い部分の事)を出して、払い出しのあるポイントにこの仕掛けを振り込んでいたとの事です。

 仕掛けには錘を付けないフカセ釣りが基本であったので、単純に考えても、竿より遥かに長い仕掛けを振り込む訳ですから、かなりの技量を要したと推測されるものです。 現実的には自分こと魚信も、この竿の振込に係る技術を少しは習得しておりますので言える事ですが、この振込には少なからずとも技術的なコツがありますから、このコツを覚えれば、仕掛けの先に付けてある釣針とエサだけの重さを利用して仕掛けをポイントの先に振り込む事が可能になる訳です。

 話のついでですが、どの様な釣りの場合でも、仕掛けを飛ばす為には、竿を力任せに振り込むだけでは仕掛けはなかなか思うようには飛んでくれません。
 竿を振り込む時に、竿だけを大きく振り込みますと、竿に大きな空気抵抗が生じますから、仕掛けを飛ばすどころか、振込み時の空気抵抗の衝撃で竿を折損してしまう事が非常に多いのです。
 どんな事にでも言える事ですが、ちょっとしたテクニックをマスターする事で、普通では不可能な技術も、案外簡単にクリヤーできるものなのです。
このテクニックの詳細はまたの機会にしますが、これらのテクニックなどを駆使した庄内釣法の技術は、200年も昔から庄内藩の武将達が体得していた訳ですから驚きではあります。
 
 この浜釣りに対する釣りのポリシー云々は別として、今で言う渚釣りのベースを作り上げたのは、この浜釣りの歴史と文化が存在していたからであると思いますから、これらの事実を顧みる事無く、あたかも渚釣りの釣法は最近の釣り人により考案された釣りとして祭り上げられ、語り継がれる事に対して、黙って見過ごす事は、釣りの歴史を嘘で捻じ曲げてしまう事になります。

近年評判の庄内における渚釣りは「浜釣り」の延長にすぎない釣法である事は、疑うまでもなく判りきった事なのですが、この世の中には自分が元祖○○とか本家△△であるなどとの言動が飛び交います。
 しかし、本物や真実を模倣した偽物は、たとえどの様に取り繕ってみたところで、これらは本物でもなければ真実でもないのです。
 ところが、本物でもなく真実でもない事の方が一般受けする場合が多いのも昨今の釣り事情でもあります。
 
 最近は歴史や文化を尊重するよりも、目の前のカッコ良さに惹かれる釣り人の方が圧倒的に多い様な気がします。
 ここ庄内に生まれ庄内で育まれた庄内釣法と昔ながらの庄内竿はあまりにも有名ではありますが、今はその光り輝く歴史と名だたる多くの名竿も色あせてしまった感があります。
 これらの良さと技術を駆使して実釣出来るほどの釣人は少なくなったばかりか、これらの理論を解いて正確に語り継ぐ釣り人も今となっては皆無同然なのです。

 このような状況が長く続いてきましたから、どれが本物で真実なのかが判らなくなってしまったり、判る必要も無い状況になってしまった事も事実であります。  
本来の庄内釣法を駆使する為には、海に対する多くの知識を身に付ける事から始まります。
 これらの多くの知識を習得した者だけが本当の本物の庄内釣法を駆使出来るのであり、釣り場においては究極のポイントに竿を振り込む事が可能な釣り人なのです。
 最近の釣り人の動向を注視しておりますと、これらの知識を体得するよりも、タックル(釣具全般)やファッションを重視する傾向にありますから、必然的にモラルやマナーは置き去りになります。

 江戸時代の昔には、海までの長い道のりを歩く事が武士の精神と体力を研鑚させるには最適であると、庄内藩の武士に奨励されてきた庄内の釣りは、武士の釣りであり、釣りが武士の魂を鍛え上げたとも言われていますが、これらの歴史的事実も遠い時代の淡き夢や幻の如く、いずれ消えつつある事も懸念されます。

しかし、これら庄内釣法から編み出された浜釣りも歴史の中では偽りの無い真実の釣法でありましたから、たとえ誰であろうとも、これらの事実を無視して、あたかも自分達が全て開発した釣法であるがの如く、今の時代に吹聴するのは褒められた事ではありません。