加藤魚信の私的な書き込みコーナーです。

釣りの事以外のプライベートなことも勝手に書き込みますから、時間のある時にでもたまに覗きにきてください。

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ミュージック情報です。        (2020  3.21更新)

大人の唄になってしまいますが、現在も作曲活動に勤しんでおります、昔のバンド仲間である中田修一さんが、作曲しまして、2019年10月31日にCDをリリースしました「人恋しくて」を紹介します。

この曲は、最近では数少ないデュエット曲になっておりまして、歌い手は、川俣克昭さんと上野美登里さんです。自分的には、とても良い曲だと思っておりますが、歌詞は中田氏から頼まれて、魚信こと、「加藤まさとし」(自分)が担当しましたから、歌詞の良否は・・・・なんとも言えませんね〜?(苦笑)

それでは、「人恋しくて」を、ぜひ聴いてみてください。

下記アドレスをクリックするとユーチューブにリンクします。
 https://www.youtube.com/watch?v=v9A7g9ctWMw




 
平成26年2月17日開催の山形県海面利用協議会における提言

 私自身、20年ほど前より、本協議会などの会議におきまして、釣り人(遊魚者)のトローリングについて、条件付きでの一部解禁を求めております。
一時期は、条件付きでの解禁を検討するとの漁業者側の意向も見受けられましたが、現在では担当委員も変わりまして、危険であるなどの理由で解禁には強く反対されております。
 
 前回の本会議でも意見を述べさせていただきましたが、漁業者の行う引き縄釣りと、釣り人が解禁を求めているトローリングとでは、その実施内容は大きく異なり、釣り人が竿とリールを用いて行うトローリングは、通常、釣り人と操船する人間が異なるために、他の船舶との衝突や海面に点在する漁具などを損傷する危険は少ないものであります。
 
 都道府県において、当初に本件の規則が定められた時代には、漁業者が行う引き縄釣りは漁業者の漁でありますから、遊魚者の実施を規制する規則が必然的にできたものだと推測できますし、これらの規則は当時であれば十分理解できるものです。
 しかしながら、竿とリールを用いたトローリング釣法とその用具が遊魚者に広く普及する以前に作られた規則であるために、今の時代にはそぐわない規則の内容になっていると思われます。

 遊魚者である釣り人には、釣竿を用いた釣りは勿論、船での釣りも認められている訳ですから、釣竿を用いてのトローリングが全面的に禁止されている事自体が今となっては不自然であると思います。
それに、船を所有した遊魚者がこれほどまでに増大する事を想定できなかった時代の規則であったために、近年では多くの釣り関連の団体はもとより、水産庁においても、実情に合わない規則は見直し、過度な規制は排除すべきとの要望や指導を都道府県に請願もしくは通達しているのが現況であります。

 今まで遊魚者の釣りに関しましては、遊びの概念の中にあったために、法的には弱い立場にあり、法が優先する社会においては何かと排除されてきた経緯と事実があります。
 しかし、平成23年8月にスポーツ基本法が施行されまして、法的には釣りがスポーツとしての明確な位置づけがなされました。
 よって、釣りを楽しむ事は、この法律及び憲法で定めるところの幸福追求権を行使する事となりますから、例えば、釣り人の置かれる釣りの環境全般についても、不都合があれば改善や整備を求める事も合法的に可能になりました。
 
 因みに、平成24年11月の山形県での地域スポーツ実施調査では、調査対象となる成人におけるスポーツ実施率の1位がウオーキングで 38.1%  5位が釣りで、12.4%  6位がスキー・スノーボード、 9.7%  10位がゴルフで 6.9%になっており、釣りは全体の5位と上位に位置づけされております。

 今まで、漁業者は漁業権と言う排他独占的権利において、何ら権利や立場を主張できない釣り人(遊魚者)を排除する事は比較的に簡単な事であったとは思いますが、これからの釣り人は、スポーツ基本法により、水産行政及び漁業者に対しても、釣りを実施するにあたり、憲法及びスポーツ基本法で定めるところの幸福追求権の行使により、不合理と思える規則や規制の是正や改正についても、堂々と主張や要求ができる法律が認めた位置づけになったと思います。

 遊魚者の釣りは、一部の者を除けば、漁を望むのではなく、それほど魚が釣れなくとも、釣りの行為そのものを楽しむ釣り人も多くなっております。
私の好きな言葉に、「釣りすれど網せず」の一文がありますが、極端な例として、釣った魚を全部放流している釣り人もいる程です。
 基本的に、漁を求める漁業者と、釣りのプロセスを楽しむ釣り人とでは、釣りに対する考え方や行為そのものが異なっていますから、何かと誤解や意見の相違も多くありますが、出来るだけお互いの意見と要望などは話し合いで調整し、問題解決に向けて今後も努力すべきものと思います。

 予め、自分の提言についての書面と関係資料は本会議に提出してありますので、その他の詳細につきましては省略しますが、漁業者及び遊魚者ともに、水産行政の中では、魚介類などを捕獲する自由を、法律上では「生存権の一部」であると聞いております。
 もし、そうであるとすれば、ヨットや遊魚船などでの航海中に、釣竿や手釣りでのトローリングにおいて、賄いとして少量の魚を釣る事や、スポーツフィッシングとしての競技的なトローリング大会などの実施要望などについて、従来からの規則を盾に門前払い的に排除する事や、全面的な禁止を続けるとすれば、漁業者側の権利の濫用になりかねません。
   
 時代と法律も変わりました事を念頭に置かれまして、今後のトローリングの条件付き解禁に向けて、皆様からご検討の程、何卒よろしくお願い申し上げる次第です。

                        山形県海面利用協議会委員 加藤 政敏




2016・3・28

魚信こと加藤まさとしが、今から40年以上も前の20代の若き頃、知る人ぞ知る・・・・
ヤングプレイズと言うエレキ・コンボバンドでライブ活動していた時代がありました。
その当時にオリジナルとして作詞作曲した曲が多くありますが、その中から今回は、
ご当地ソングである「湯の浜ブルース」と「ナイト鶴岡」の2曲を新たにカバーした形でCD制作しました。

このたびCDは、同じ曲を鶴岡市在住の川俣克昭さんがボーカルを担当したオリジナル曲版と
同市のアマチュアバンドであるチェリーの本間清さんがバンド活動で歌っておりますカバー曲版の2本立てになっています。

曲目は「湯の浜ブルース」と「ナイト鶴岡」の2曲になりますので、同じ曲ではありますが、
川俣さんはソフトな感じの歌い上げが魅力的で、一方の本間さんは聴き応えのあるハードな歌唱力が引き立ちます。
ユーチューブから、それぞれの歌声と曲調を皆様にお届けしますので、聞き比べていただければ幸いです。

下のアドレスをクリックしていただくとユーチューブの音楽サイトに接続されます。
なお、これらの曲の音源編曲は、ヤングプレイズの元メンバーでキーボードを担当していた中田修一が担当し、
今回のCD制作のトータル監修は加藤まさとしの実弟である加藤敏幸によるものです。
なお、両氏ともに鶴岡市在住です。

川俣克昭さんの「湯の浜ブルース」と「ナイト鶴岡」  ユーチューブ20016年3月27日公開
https://www.youtube.com/watch?v=fnCDMhIhpQA
https://www.youtube.com/watch?v=_oTcTSGlVwI

チェリーの本間清さんによる「湯の浜ブルース」と「ナイト鶴岡」 ユーチューブ2001511月2日公開
https://www.youtube.com/watch?v=LFfAO1Qa8ds
https://www.youtube.com/watch?v=WRqXNFaretw



2016・3・29
「ナイト鶴岡」のボーカル女性版が新たにユーチューブにアップされています。
中田修一さんが女性用に同曲を編曲し、一風変わったラテン系の曲調に仕上げております。
同じ曲でありながら、違う曲に聞こえる「ナイト鶴岡」のゴージャス版を是非ご視聴ください。

ボーカル担当は鶴岡市在住の上野美登里さんです。 ユーチューブ20016年3月28日公開
https://www.youtube.com/watch?v=yzC8r27vCbQ


ザ・ヤングプレイズのプロフィール

 1960年代・・・全米で大ヒットしたエレキバンドであるザ・ベンチャーズや日本国内で圧倒的な人気と実力を兼ね備えた寺内タケシの率いるエレキバンドのサウンドに魅せられて、いち早くエレキギターを手にして練習に明け暮れた当時高校生であった「加藤まさとし」が、後の1965年に山形県鶴岡市では最初のアマチュアエレキバンドであるザ・ヤングプレイズ(5人編成)を結成。

 バンド活動は、鶴岡市と酒田市のライブハウスでの演奏が主体であったが、全国を対象とするアマチュアバンドコンテストなどにも積極的に参戦し、庄内大会、山形県大会、東北大会などでも活躍し、山形県代表として秋田県で開催の東北エレキカーニバルにも2年連続出演。
 1970年 オリジナル曲である「思い出の瞳」と「別離」を自主制作にてレコーディング。 「思い出の瞳」は有名音楽誌主催の全国作曲コンクールにおいてベスト8に入賞。

 1971年には、加藤以外はすべて新しいメンバー編成となり、鶴岡市湯の浜のホテル内クラブの専属バンドとして、新たに管楽器やパーカッションなども取り入れ、音楽的にも多彩なジャンルが楽しめる、コンボバンドスタイルでの活動が主体となります。
ちょうどこの時期に、ご当地ソングとなる「湯の浜ブルース」と「ナイト鶴岡」をオリジナル曲として作り上げて、バンドのライブでリーリースしたところ評判となり、ラジオやテレビ放送の出演依頼が多くなります。

1974年〜75年 2年間続けてバンドでの単独リサイタルを鶴岡市文化会館にて開催。 多彩なジャンルの演奏を披露し、多くの観客から喝采を浴びての盛況となりますが、その後まもなく、バンド結成10周年を節目として、活動の一切を休止する事になります。