健全なる身心は、規律ある生活から・・
赤ん坊の時は肌を離すな
幼児の時は手を離すな
子供の時は目を離すな
少年の時は心を離すな

 戦争に負けて日本中がしょげかえっているとき、アメリカのル−ス・べネデイクトが「日本人は恥を知る国民である」(菊と刀)と述べて世界の注目を浴びた。これがどれほど日本人を力づけたかしれない。もっとも、それ以前より、我が国を訪れた欧米人は口をそろえて、「日本人は物質文明においては西欧に遅れをとっていても、精神文化はすぐれている」と評価されていた。明治23年に日本にやってきたラフカデオ・ハ−ン(日本名小泉八雲)も、日本人は嘘をつかない恥を知る人間であると評価し、日本人の礼儀作法、お盆の迎え火、送り火などのしきたりなどにも関心を寄せ、それは詩的なまでに奥ゆかしい情緒であると感嘆している。 しかし、今、日本人の精神文化ははたして高貴といえるであろうか。

 昔は、人に迷惑をかけるな、歩きながら食べるな、お年寄りに席を譲れといわれた。昔は他人の子でも「公の精神」に背く行為には注意をしたものだが、現今では注意すればキレる若者の増加からことさら注意はしないという風潮になってしまったようだ。それどころか、わが子が先生に怒られたといっては学校に怒鳴りこみ、他人が意見をしようものなら余計なお世話と気を乱す。幼い時から先祖や年長者を敬うという教育がなされず、子供の前で夫婦が罵りあったりしていたのではと思ってしまう。昔も今も、子供は親を見て育つもの。年金や保険料の未納、授業料の滞納、学校給食費さえも支払わない。奨学金さえ返済しない人が多くなり育英会の事業にさえ支障をきたしているという。
 「手厚く育てる」といってもわがままを放任するのではよい子になろうはずもない。逆に「過干渉」や「きびしい」だけでは「我慢させられているだけ」で自らの「やる気」は身につかない。「我慢」を教えるべき親自身のキレる事件などは、親自身が我慢できない自分に対して憤怒している姿に他ならないだろう。
 キレル子や暴力事件を起こす子は突然に発生するのではなく、幼い頃からの家庭環境の具現です。子供の目を見て、しっかり話しを聞く。悪いことに対しては感情的にならずに諭す、そんな日頃の親の態度で子供の心の成長が促される。それがわからない親は、自分勝手な思いでよろこんだりひがんだり。そんな我田引水評価が人生の「よるべ」になるはずがない。
  その因果がわからなければ −−
 「子を持って知る親の損」 「夢を持て 夢を持ったが 夢だった」 
 ・・・ つぶやき絶句を読むことになります。

由良 白山島 H.17年晩秋、日没後の夕焼け
            宗教をもって生きるとは
自分で自分を反省し反省し
採点していくことである        
沢木興道老師の言葉

 さて、最上町の世界的冒険家、大場満郎氏は随想の中で、中学2年の冬、真室川町の鷹匠、沓沢朝治翁との出会いを書いています。鷹匠とは猛禽の王様といわれる鷹を飼い慣らし獣などを捕る人ですが、鷹は体力がある状態ならばすぐに逃げ出して野生に戻るし、体力が無い状態であれば狩りができない。この野性味の強い鷹を飼い慣らすのは大変難しいことといわれる。
 大場氏は「鷹の嘴と沓沢翁の唇が触れ、キスをしている。まるで恋人のようである。これは人間業でない。神業だと思った」。そんな沓沢翁が、鷹を飼い慣らす秘訣として「鷹の心を持って自分の心とし、自分の感情を強いたりせず、鷹に通じ得ない無理は決して求めない」。「自分の気持ちが面白くない時には、鷹小屋には近づかない」。これが鷹匠の秘伝であって「常に、鷹とともにおれば、鷹は自然に鷹匠の重い通りに動くようになるものである」。この姿勢こそ、鷹匠技術の要旨であり、鷹を通して自分の心を磨いていたのであろうと語っておられます。
 非行グル−プに昼夜を問わず指導にあたっているある教諭は、「あの子たちは、いわば猛獣みたいなものですよ。強い敵には集団で牙をむくし、弱いものは噛み殺す。そしていつもガツガツと飢えているんですよ。だから私は猛獣使いのような心境で接することがあるんですよ」と生活指導の本音をこっそり語っておられますが重要な参考になります。本来子育ての目的とは子供の持っている仏性を慈しみ育てることと考えます。
 釈尊(仏)をたたえる十種の称号の一つに「調御丈夫(ちょうごじょうぶ)」があります。
 「調御丈夫」とは、調馬師が馬をよく調教するがごとく、人間のよき調教師、人生のよき教師という意味合いが込められています。仏とは人間の煩悩を調御する人、自分自身を完全に調御された大先達という称号です。
 釈尊をたたえる十種の称号とは 如来(にょらい) 応供(おうぐ) 正偏知(しょうへんち) 明行足(みょうぎょうそく) 善逝(ぜんぜい) 世間解(せけんげ) 無上士(むじょうし) 調御丈夫(ちょうごじょうぶ) 天人師(てんにんし) 佛世尊(ぶつせそん


宮城県唐桑町 巨釜 H17年秋

 既得権益にしがみつく政治屋と官僚、そして国から甘い汁を吸うことばかりを考えている企業、我利我利亡者の凶悪事件等も頻繁に報道される。元東京地検特捜部長のコメンテーターは「犯罪の本質なんて、そう変わるもんじゃないですよ。性悪説というか、人間というのはもともとが悪いんですから(笑)」と語るのも一面わかるような気がする。もっとも、仏さまの教えは「性悪説」ではありません。しかし、このような世相を見る子供達に学校で「将来の美しい夢を描け」と教えるのは至難なことかもしれません。けれども、家庭、とりわけ両親だけでも正しい信念を持つならば子供にとっては大きなしつけになる。
 明治時代の福沢諭吉は自伝(福翁自伝)の中で、彼が育った中津藩の一部上級武士の汚い仕事ぶりや、すさんだ生活を強く非難しています。しかし、福沢諭吉の父親は人間として立派であったのでしょう。ある時、諭吉の父が、うっかりして買った代金より少なくお金を渡してしまった。その時、父の百助は、町中を探し回って行商人を見つけ丁寧に詫びて渡した。武士身分の百助が当時の身分制度で下位におかれた町人に頭を下げたのであった。このような両親を尊敬した諭吉は、上級武士の堕落した生活をまねようとはしなかった、と伝えられます。
 
 現代教育では「ほめる」ことを重視していますが、「ほめて」育てるといっても、ただほめるだけでは何が悪いことかはわからない。貝原益軒の教育指針の中に、子供のしつけにあたっては「有才多芸をほめるな。善行をほめるな」と、「ほめると子供の心にうぬぼれが生じて傲慢になり、まわりの者をみくだすようになる。その傲慢が人間を悪くする」と示しているところも注目すべきところです。釈尊は「人間恥を知らないものは禽獣に等しい」と示される。その恥を知る人とは自分を見つめ尊敬するものをもっているもの、自省し尊敬するものがあるからこそ恥を知ることができるのです。
 「人の道」とは簡単に言えば、中道(高慢にも卑下にも陥らない道)を守って、譲り合い協調していくことだと思うのです。「念ずれば花開く」、しつけの縁を道場として共育と受けとめたいものです。