賢いつもりでバカなのと
鈍感でバカなのが一番かなわんね
 今  東 光 

周利槃特(しゅりはんとく)への教え

 「無能気付かぬ無能さ」本当に無能な人は、自らの無能さに気付かない−。米国の社会心理学者二人がこんな研究をまとめた。
 コ−ネル大学の学生らを対象に研究したジャステイン・クル−ガ−さんらによると、無能な人がこれに気付かないのは、自分の能力を現実的に評価する基本的技術に欠けるため、彼らがいったんこうした技術を身につければ、自分の能力がどん底にあることにも気付くようになる。
 では、自分が無能だと認める人と、自信を持っている人と、どちらが信頼できるのかというと ・・・・・ どちらも信頼できないというのが研究の結論。  (ワシントン・ロイタ−共同)
 平成12年1月22日山形新聞に掲載されていました。
そんな長文でなくても、かつて作家の今東光さんは「賢いつもりでバカなのと、鈍感でバカなのが一番かなわんね」と喝破していますし、すでに2500年前にお釈迦さまは「愚かの者とて愚かを知るはまだ賢し、賢しと思う愚かの者こそは、まこと愚かの者とは云わめ」(法句経)と示されます。

鳥海山 川原毛から秋の宮の途中にて H16.10.29

 お釈迦さまのお弟子のお話です。
 お釈迦さまのお弟子さんに、チューダパンタカという方がいました。漢訳仏典では周利槃特(しゅりはんとく)と呼ばれている方です。 この方はひじょうに物忘れがひどく、自分の正式の名前(たいへん長かったようです)すら覚えることができなかったと言います。
 この時代、お釈迦さまの弟子たちは、お釈迦さまの教えを、ガ−タ−という詩のかたちにして暗記します。一日に五つも六つも詩を暗記できる者もいれば、一日に、ひとつしか暗記できない者もいるといった具合に、みなそれぞれ自分の分に応じて修行をしていたわけです。
 お釈迦さまはチューダパンタカに「三業に悪をつくらず、諸々の有情をいためず、正念に空を観ずれば、無益の苦しみはまぬがるべし」という詩を教えられました。「悪いことを思ったり言ったりしないで、諸々の生命を損なわないで、どんなことにも執われなければ、つまらない苦しみなどどこかにいってしまうよ」という意味の詩でありますが、チューダパンタカにはこの詩がなんとしても覚えられないのです。
 兄のマカーパンタカは秀才の誉れが高く進境いちじるしいものがありましたが、弟のチューダパンタカは、ただの一句すら覚えることができません。何度も繰り返し教えてもらうのですが、最初に戻ると、もう後の句を忘れてしまう、後の句を覚えると最初の句を忘れてしまう、といった調子で、いっこうに先に進みません。 そんな状態でしたから、お兄さんのマカ−パンタカはとうとう面倒を見切れなくなって、チュ−ダパンタカに、「もうおまえは還俗しろ。仏教教団にいても、おまえは悟りなど開けないだろう」と言って、教団から追い出そうとします。 しかし、チュ−ダパンタカは、どうしても教団を去り難く、ひとり祇園精舎の門の前でしょんぼりとたたずんでいました。
 そこへお釈迦さまが来られて、「チューダパンタカよ、どうしたんだね」と尋ねられました。
 そこで、チューダパンタカは、「兄に、おまえはもう、仏教教団にいても見込みがないから、田舎へ帰れと言われま した」 と答えると、お釈迦さまは、「チューダパンタカよ、わたしについておいで」 と、チューダパンタカを連れていき、これで「塵を払い、垢(あか)を除かん」といって掃除をしなさいとほうきを与えました。チューダパンタカはお釈迦さまに見守られ「塵を払い、垢(あか)を除かん」と念じつつ掃除を続けついに佛意を体得できたのです。お釈迦さまに呈したチューダパンタカの悟りの言葉は「除とはこれ慧を謂い、垢とはこれ結をいう」。チューダパンタカは「自己をあざむかず人をあざむかず、ただまごころ、誠実一片で煩悩の塵を払った」とその切に悟りが開けた −− と、このように伝えられています。

小安峡 秋田県皆瀬村

  知識は知恵とも解釈できますが、知恵とは一般的知識です。仏教で説く「智慧」とは自己を含めた大局的な見識を持ち自分が好きで自信を持つことのできる人といえるでしょう。智慧が無いからウソを平気でついたり、つまらないとグチり、身近にある「幸せ」を感受できない。
嘘つきの受ける罰は、人が信じてくれないというだけのことではなく、ほかの誰をも信じられなくなるということである。(イギリスの劇作家バーナード・ショウ)
ずるい人間は、すぐに他人もずるいと思い込む。(ラ・ブリュイエール)
 自分が好きといっても、自分の長所にうっとりしたり他と比較して優越にひたることではない。自分を好きで愛するというのは短所も劣等感も含めてまるごとよしとする心であるが、まだこれだけでは不充分といえる。なぜなら、他と比較したりして生ずる煩悩を抑制しないと真の幸せとは違ってしまうのです。チューダパンタカが塵を払い、垢を除くことができたのは純真な智慧がそうさせたのであって、要領の良い知恵者にはとうてい真似のできないところです。

 ところで、現今では性差別の問題もありますから、「婦」とか「嫁」という字はあまり使われなくなっています。すなわち「婦人部」は「女性部」に、「嫁」は「家制度」に立つ解釈であるということからあまり使われなくなりました。嫁ぐという言葉も少なくなっています。近頃ではとくに家事は雑用とでも思っているのか「家事をするような結婚はしたくない」 「お茶くみや雑巾がけの為に就職したのではない」と主張する方が多くなりました。
 そんな方は、洗濯、食事の後かたづけ、掃除など、みなつまらん雑用と思っているのでしょう。すべてのことが全て人生なのに、それをなおざりにするから雑用になるのです。「おもしろい」「つまらない」は自分しだいです。そう考えなければ、仕事はますますつまらないものになってしまう。日常の作業を禅では「作務(さむ)」といいますが、作務そのものが禅の修行です。修行の余暇に作務をしているのではないのです。
 周利槃特に因み、お釈迦さまの説かれた「掃除の五功徳」を示します。
1には.自からの心垢を除き、
2には.亦他の垢を除き、
3には.驕慢を除去し、
4には.その心を調伏し、
5には.功徳を増長し、善処に生るを得。(功徳を増長し、死後必ず天上に生をうける)

 「五千五百佛名除障滅罪神呪経」というお経があり佛名を唱えて懺悔滅罪(さんげめつざい)を祈るところの「佛名会」ということが、中国では盛んに行われたようです。その中に「南無掃箒如来」(なむそうしゅうにょらい)という名号があります。いうなれば、ほうき佛であります。禅においては「南無掃箒如来」を理屈でああであるこうであると解釈するのではありません。人の嫌がることも手を抜かずに無心に行う。他人のためと思うから他人の評価を求めるようになるのです。
 仏教とは完璧な人間や欠点のない人間づくりを目指すというのではありません。「自分の愚かさを知るものは愚かな者ではない」とのお示しをいただくとき、愚かを知ることは如来の智慧の恵みと受け取ることができるのです。たった一句の詩すら覚えることのできなかったチューダパンタカが阿羅漢になったという話は、求道者にとっては真に力づけ勇気づけられる話となるのです。

不帰の滝 宮城蔵王