こころのバリアフリ−

蔵王の樹氷

 生まれつき両手両足の無い「先天性四肢切断」という障害を、単なる「身体的特徴」と考え、自分にしかできないこと、それは「心のバリアフリ−」《バリアフリーとは障害者や高齢者にとって障壁となるもの(バリア)を取り除く(フリー)》と福祉活動など電動車椅子に乗って全国を回られているのは乙武洋匡(おとたけひろただ)さん(昭和51年生、早稲田大学政経学部卒)を皆さんご存じでしょう。
 電動車椅子に乗った彼の笑顔をテレビで初めて見た時、あの笑顔に大変感動したのです。一緒に見ていた娘も同感であったようで数日後に彼の著書を購入してきたのです。
 その著書「五体不満足」(講談社)には「障害は不便です。だけど不幸ではありません」。あとがきには『ボクは、五体不満足な子として生まれた。不満足どころか五体のうち四体までがない。けれども、多くの友人に囲まれ、車椅子とともに飛び歩く今の生活に、何一つ不満はない。ボクは声を大にして言いたい。障害を持っていても、ボクは毎日が楽しいよ。健常者として生まれても、ふさぎ込んだ暗い人生を送る人もいる。そうかと思えば、手も足もないのに、ノー天気に生きている人間もいる。関係ないのだ。障害なんて』 ・・・読むにつれ引き込まれ、いっきに読ませていただきました。

 小学校での好きな授業は体育だったという彼は、野球・サッカー・ドッジボール・なわとび・マラソン・水泳とすべて果敢に挑戦し楽しんだ様子が描かれています。都立戸山高校でもバスケットボールの選手として活躍します。高校ではアメリカンフットボール。さすがにアメフトは直接できようはずはないものの、対戦相手のデータをパソコンに集め監督に提出する役目。いわゆる、選手、マネージャー、コーチのパイプ役として重要な役目を担うのです。そして、恋の芽生えも素直に表現しています。

 著書に『小学校の頃から、サッカー部の男子が見た目のカッコよさでキャーキャー言われているのを横目で見ていた。「うらやましい」とは思っていたが、自分がそのようにもてはやされるタイプでなかったことは知っていた。車椅子に乗っている人間が、外見だけで女の子の視線を集めることはできない。好奇や同情の視線でなく、思いを寄せる眼差しを得ることは。(中略)。恋愛に障害は関係ない、と言いきるつもりはない。(中略)。しかし、ここで重要なのは「障害を言い訳にしないこと」だと思う。たしかに、恋に破れ傷ついたとき、まず頭に浮かぶのは「障害」かもしれない。ボクの目が見えれば、私の耳が聞こえたら・・・しかし、本当にその失恋の原因は障害だったのだろうか。絶世の美女でも叶わぬ恋をすることがある。思いどおりにいく恋などないのだ。第一、そんな後ろ向きな人間に誰が魅力を感じるだろうか。「どうせ、オレは障害者。まわりには同情をよせる女性ばかり。こんな俺には、まともな恋なんかできやしないよ」。これでは、たぐり寄せられる恋も、自分から追い返してしまっているようなものだ。
 (中略)結局は、その人の魅力次第なのだ』・・・あとは是非彼の本を読んでください。
 「さわやか」という言葉があります。さ、わ、や、か、これは全部ア音です。耳にも心にもやさしく響く言葉です。そして、健康という言葉があります。これは「健体康心」からきているようです。「健体」というのは「体がすこやか」、「康心」とは「心がさわやか」つまり、体が丈夫であっても心がさわやかでないと「健康」とはいえないという字義でしょう。「障害」ということは、本人が主体的にとらえることであり、他人から「障害」であると指摘されるようなものではありません。かつてヘレン・ケラ−は「障害は不自由であるが不幸ではない」と答えています。

 F1レ−サ−を目指していた大原逸男さん(ダイアナ社長)も、ある尼僧のアドバイスによって人生をたてなおした経験の持ち主といわれます。レ−ス中の事故で右手の指を3本を失い、以後、自暴自棄になり、生活が荒れていた。そんなある日、両腕の無い尼僧と出会い、こう言われます。
 「不具者がなんです。障害者がなんです。そんなことは問題ではありません。障害は肉体だけで充分です。精神までひがみ根性になっておられるのは情けないじゃありませんか。指を3本失ってもまだ2本残っているじゃないですか。しないことと、できないことは違うのですよ」 この言葉で大原さんに発想の大転換が起こり、後に年商何百億円の会社社長として活躍することになるのです。
 大俳優の芦田伸介さんは、若いころ交通事故で顔を147針も縫う大けがをした。将来の希望を失い悲嘆にくれていた時、仲間の宇野重吉さんが見舞いに来て「日本の俳優の中にも、一人ぐらい目の不自由な人がいてもよいではないか・・」と励ました。その一言でまたやってみようと勇気が湧いたという。


 体の障害や傷をもっていても、しっかり障害をみつめることによって障害から解放されるのです。障害者を「かわいそう」とか「私とちがう」「自分の時間がなくなる」とみる目は五体満足の健常者です。そんなバリアを作っているのは自分自身です。障害を「かわいそう」と思うその心がじつは障害なのであり、自分の心の壁といえるのです。その障害や心をしっかり見つめて闘い、語り合い、許し合うことが人生であり、文学や芸術や芸能、哲学となっているといえるでしょう。
 永平寺74世貫首・佐藤泰舜禅師は「円同大虚、無欠無余」のお話の中で「すみれの花が道ばたに踏みにじられて、咲き損なったように咲いておる。その踏みにじられて咲損なったようなすみれの花も、こりゃあ、別にわしは運が悪いとか恥ずかしいとか、そんなようなひがみ根性はない! まあ春の命を受け、そしてありのままに、踏みにじられたありのままに、おのれの絶対の力をそこに現しておって、恥ずかしいとも思わんし、俺は俺で一人前だとも思わずに、そこに、すみれの・・踏みにじられたすみれの花、これが本当の生きた仏様なのだナ。 さっさと咲き誇った牡丹の花、ああこりゃまあ良い花だと、牡丹の花自身が、どうか見てくれと見せびらかしたいという気持ちもない。 そうゆう意味の牡丹の花を見なければ、こちらにへんな気持ちがあるから、ああ牡丹の花でまことにこう気持ちがいいとか、スミレの花でどうもみすぼらしいとか、そうゆう気持ちというのは、こっちが余分に邪推するだけであって、みんながありのまま! そうゆうものが本当の道元禅師がご覧になっておるこの世界であります・・」 と示されています。