家庭内暴力にはいろいろ形態があります。その一つ、児童虐待は外からは見えにくい家庭という密室で行われますから、児童虐待で報告される件数も氷山の一角でしょう。冷えた家庭の影で居場所が見つからず悩んでいる子供たちは想像以上に多いと思われます。間口の広い問題ですが、ここでは「子供のしつけ」として考えてみます。

 犬や猫でさえ一度でも虐待すればその人には近寄らなくなる。子守の経験もなく、犬や猫さえ育てた経験のない人間が人間の子を育てるのです。しかも、頼りとする人は核家族化の影響で相談できにくい。そのような状況の中でいわゆる素人が子供を育てるのです。しかも子育ては育児書どうりにはいきませんから子育て経験のない親にとっては不安は増すでしょう。 そんな中で度々報道される「幼児虐待」の事件。その理由が「泣きやまなかった」とか「なつかなかった」というのではあまりに悲しい。虐待を「しつけ」だったというに至っては人間としてあわれむべき認識です。幼児は親の都合にあわせて寝起きするわけではない。逆に忍耐と寛容が求められるからこそ「子供が親を育てる」というのです。赤ちゃんが泣くのは、大人が呼吸をしたり会話するのと同じこと。幼児が突然大声をはりあげて泣きはじめるのは、手足が思うように働かないのでやりたいことがうまくできないからです。子供は知恵熱や大泣きを通して成長していくのです。
川原ケ地獄 秋田県湯沢市
 子供がすねたりひがんだり、不機嫌になるのも成長過程ではあたりまえ。子供の情緒不安定とは夫婦仲が悪かったり、親がすぐに怒ったり不機嫌になることや、子供は自分を認めてほしいということが起因するのではないでしょうか。 しかし、心に葛藤がある親は子供のしつけにも無意識的であっても子供を操作してしまう。おだてたり、おどしたりしながら自分の都合のよいように育てる。さらに子供をバカにしたり、からかったりしながら叱る姿勢は教育ではなく親自身の心の傷を癒そうとする行為であろう。人がいると妙にはしゃぐ子供がいる。そうした子供は淋しいのです。大人も子供も、人は誰でもそうであるように、子供も親に認めてもらいたいために親の注目を得て安心しようとする。けれども、それをかなえることができないから自分を責め悩み不安になる。不安に対しての態度が変化しても愛情を求めていることと不安であることとは同じこと。不安な子ほど強く愛情を求めるものです。
 世間は身体的虐待を重視し心理的虐待(無視・おびえさせる・ののしるなど)を軽視する傾向にある。身体的虐待は論外として、その心理的虐待は長い間に重く深く刻まれその子供の心を傷付ける。親が社会で働く時にはいろいろな困難や苦しみはともなうものだが、その感情をそのまま子供にぶつけて親子共に傷ついてしまうのでは悲しい。子供との約束でも「5時まで帰りますよ」と言ったら必ずそれを実行する。遅くなりそうならば連絡するなり遅くなったことをよくわかるように説明する必要がある。叱る時でも、かみ砕いて話しているつもりでも「わからない」といわれることもある。けれども、「どうしてわからないの!何度言ったらわかるのかしら。本当にダメね」などと言ってしまうと子供にとっては大きなマイナス暗示となり問題行動を引き起こす因となってしまう。子供の背後にあるものを理解する愛情をないがしろにすれば、やがて子供の無感動、無反応、攻撃性を持つことにもつながる。子供はそんな自分の心の傷を自分でなんとか癒そうとしたする時に外に向かってキレてしまう子もいれば、引きこもりのように内に向かう子もいる。生まれた時はもちろん純真無垢。反抗的な態度であっても愛情を求めたいとする人間の本性をよく理解しておきたいものです。
 かつてインドで、生後すぐにオオカミの群で育った、推定七歳の少女が発見された。イギリスで専門家が付きっきりで人間社会へ順応するように養育したが、四つん這いで走り回り遠吠えするなど、ついに言葉を修得することはなく、12.3歳で死んでしまったという。人間として生を受けても、狼に育てられたら狼になってしまうということです。親としての責任の重大さに胸ふるえる思いがします。

 西有穆山禅師(1820〜1910)は、明治時代における学徳兼備の名僧でありました。幼名は万吉、この万吉少年、九歳の時、母に連れられてお寺詣りをしました。すると寺の本堂に地獄・極楽の掛軸が掲げてあったそうです。万吉は、地獄で人間が鬼に舌を抜かれたり、釜ゆでされたりしている絵図を見て、母親にたずねました。
 「それは悪いことをした人々が、鬼にお仕置きされてるところだよ。かわいそうなことだ」 と、母親が答えますと、万吉は、
 「では、こっちのほうは何なの?」
 と、天女が音楽を奏でている極楽の絵図を見てたずねました。
 「それはネ、人のため、世のためによいことをした人々が行くところだヨ」
 「では、おかあさんは、どっちへ行くの?」
 と、ジッと母の顔を見つめて聞きました。母は、ギクリとしましたが、静かに答えました。
 「ウン、おかあさんは決して悪いことはしまいとつとめてはいるが、お前たち子供かわいさに、知らず識らずの間に、悪いことをしてると思うから、おかあさんも地獄行きでしょう」
 「ではおかあさん、どうすれば極楽に行けるの?」
万吉の真剣な質問に、母親はしばらく考えておりましたが、
「万吉や、昔からナ、一子出家すれば九族天に生ず、といわれて、誰かがりっぱな坊さんになれば、おとうさんおかあさんだけでなく、親戚のものがみな極楽に生まれ変わって幸せになることができる、といわれてるよ。でもこれはなかなかむずかしいことだヨ」と答えました。
 このことがあってから、万吉は時にボンヤリ考えている日が多くなり、翌年、十歳の時万吉はついに出家したというのです。偉大な母親というのは、たとえ文字を知らなくとも、善悪のけじめをはっきりし、自らの罪の探さを知り、懺悔し、自身を飾ることなく子供に教えたものです。この母の真摯な態度が子供の心に通じ、子供を奮起させる基となるのでしょう。
 
泥湯温泉 川原ケ地獄までは車で3分
 親が子供を叱るということは、子供の性格や行動を仏の子として望ましい方向に導くことです。
 大本山総持寺の元板橋禅師は「心豊かに生きる知恵」という著書で「現在、青少年の非行、登校拒否、家庭内暴力、いじめ、暴走族などが問題になっている。これは甘やかされ、へりくつを覚えたペットが、だだをこねて暴れているようなものである。ペットがペットを育てたあげく、そのわがままな増長ぶりに、親ペットが手を焼いているようなものでなかろうか。非行少年で早寝早起きするものはいない。彼らはすべて、遅寝遅起きである。だれがこのようにしつけたのか。二歳児で夜10時以降に就寝するものが、約4割にも達するという統計がある」。これは教育ではなく、親ペットが子ペットを育てているのが現状である。」−− と指摘されています。
川原ケ地獄全山
 仏教の「一切衆生 悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)とは全存在の根底を示します。道元禅師は「悉有は仏性なり」と示される如く、すべての子供達は、仏の目から見れば「そのままで仏なんだよ」ということです。法華経の「薬草喩品」の中にこんな話があります。
 要約すれば、『たとえば、山川大地に生えている小さな木や大きな木、あるいはさまざまな薬草にはたくさんの種類があり、色も形もみな違っている。その山川大地に雨を降らしたとしよう。その雨のうるおいは、あらゆる小さな木や大きな木、あるいはさまざまな薬草がそのうるおいを受けることになる。その慈雨を受けた草木はそのおのおのの性質に応じて生育し、花を咲かし実をつける。同じ大地に生えているものでも、同じ雨にうるおされたものであっても、それぞれの草や木で違いがあるようなものである。』という説示です。−− シャクヤクは薔薇のようになろうと頑張ることはない。それに、人は頑張ればいいというものでもない。それぞれの子がそのままでかけがえのない存在なのですから、出来ないことにこだわるのではなく出来ることに目を向ければいい。現今、中学・高校生でも将来に夢を描けなくなっているということの原因の一つに、その子が興味をもっていることや、好きなこと、得意なことを考えないで入試体制だけを重視是認する。その予備校の勉強では、「受験の役に立つ知識」を多く覚えられる子が優等生や秀才とされる。植物好きの子供が花の名前を多く知っていても、テストに出ない知識は無意味だと考える。親自身の教育理念で競争に勝てるようにと励ますそのことが子供にとってやる気を失い、キレル事件の根底になるのではないでしょうか。
 教育とは、競争して勝つ為のものではなく、「自分に負けない良い人間を育てること」でしょう。「悉有仏性」の教育とは、たとえ貧しくても夫婦仲がよければ子供は愛情豊かに育ちます。親のはからいで育てるのではなく、“仏さまからのさずかり子”として、その子の花を開かせてあげることと思うのです。

泥湯温泉の秋の山並 H16.10.22

子供の人権救済に関する各弁護士会の無料相談機関
   イライラ・暴言・暴力は自分の思いが言語化できないもどかしさゆえの、明らかな意思表示です。自分の力に限界を
   感じたら無理をせずに、専門家の力を借りましょう。決して、恥ずかしいことや責任を感ずるべきことではありません。