| この生死(しょうじ)はすなわち仏の御いのちなり 『正法眼蔵(生死)』 |
![]() |
| 秋田十文字町 皆瀬川にて撮影 後方鳥海山 |
| 家族に不幸が重なったりした時、どこから聞いてくるのか宗教団体の人が複数で訪ねてきて、「私らの信仰に入れば、その子は救われる」 「あなたの先祖が地獄で苦しんで、あなたの救いを求めている。すべてをなげ打って信仰しないと家族は不幸になる」などと熱っぽく語り出す。 自分には大切にしている信仰があるからと辞退すると、「あなたは薄情だ!そんなことだから不幸になる」と豹変する。何とかセミナ−とかサイキックなんとかと称し、人の悩みや弱みにつけ込み同情するふりをして「尊師の修行を受ければ病気が治る!」「守護霊の霊格を高めれば、幸福になれる!」
と不安や恐怖心をあおり妙なモノを押し付ける。 危険な宗教を見分けるもっとも分かりやすい判断基準はお金の強要です。更に、根拠もない近未来の終末論を説いていないかどうか。 病気がなおる、人間関係が好転する、試験に合格する等と現世利益のことさらな強調がないか。組織メンバ−で取り囲んで不安をあおったり、脱会者や入信を断った者に対していやがらせをしていないか。もし、このような誘いであればきっぱり断った方がいいでしょう。「薄情」とは己の思いを押しつける人のことです。
しかし、実際に自分が病気になればワラにもすがる思いは同じになってしまうものです。
人生、苦しみや悲しみはあっても生きることを止めてしまうわけにはいかない。過酷な状況であれば、今、まさに人生最大のがんばりどころという状態でしょう。命ある限りは懸命に生きようと覚悟して、心に憂いを起こさないようにして、「日々是好日」といただくことができれば、それが禅のねらいです。立派な禅師の話ではなく、当寺檀家のおばあさんの句集から、そんな生きかたを紹介します。 「おしん以上にオレは苦労した。貧しい農家で勉強もしたかったが、そんな贅沢はできなかった」と語ってくれたおばあさんが胃ガンで亡くなったのです。そのおばあさんが自宅で寝たきりになった頃から書き始めたという句集を見せていただきました。 これきりと思ふて眺むる庭つつじ 告知はしなかったそうですが、死期を自ら予知しながら「今」を観ずるおばあさんの姿が瞼に浮かびます。しかし、句集には、愚痴る句は一つもありませんでした。 生きのびて衣がへする梅雨の入り 見栄を張りやつれし顔の苦笑ひ には、率直で元気なおばあさんの姿を思い出します。 我が心 風鈴の音で静かなる 人は皆 業を背負ひて生まれ来る しのんで強く生きるも楽し 苦しみ痛みの中にあって、痛みを受けとめ、「今」を切に生きるおばあさんの姿勢を感じます。 嫁が来て 心休まり 昼寝する 病める身で悔いなき日々を送るのも すべては我が子のお蔭なりせば 「無常」の中で、生かされている「有り難さ」を観ずる。そこに安心(あんじん)があれば病の中にあっても内なる仏のよびかけに気づくことができるのでしょう。 あじさいの 色あざやかな つゆあがり 里の朝カッコウ鳴いて初夏を知る 仏教詩人、坂村真民さんは「二度とない人生だから一輸の花にも無限の愛をそそいでゆこう、一羽の鳥の声にも無心の耳をかたむけていこう」 とおっしゃっています。 人生の意義をしっかりつかまえている人は、とらわれないこだわらないという信仰を持っているものです。両手両足を失ってしまうという障害を受けながら信仰の篤かった中村久子さんは、「生かさるる命尊し今朝の春」と詠まれました。諸行無常で生老病死の四苦八苦が「人生」です。しかし、その苦を憂うることなく楽を楽しむ姿勢、生老病死の反照によっていのちの輝きは増すというものでしょう。「ありがたい」という思いは無常の中の「今の命の尊さ」を確かに掴んでいる心のあらわれといえます。 本当に苦しい時期には、皆の前では必死で感情をこらえても、一人ぼっちになった時には悲しみの慟哭はおそってきます。そんな時には涙が枯れるまで泣けばいい。涙が悲しみを流し、涙に心は浄化され深化していく作用もあるのです。でも、できれば、うつむいて泣くのではなく、上を向いて胸を張って泣きなさい。泣いたあとは鏡に向かって自分を応援し、いい笑顔をつくりましょう。
自然法爾 (落ち葉は吹く風をうらまない)
|