聞いてわかるお経をあげて・・・


 産経新聞掲載の直言に、 『 聞いて分かるお経をあげて−− 他界した故人はお経の意味を分かるだろうか。先日身内に突然の不幸があり、お葬式の間、そのことが気になって仕方ありませんでした。死者が迷わず、安らかにあの世に旅立って欲しいというのが遺族の願いです。であるならば、聞くものが理解できて安らぎに満たされ、心の糧となるようなお経こそ功徳があると思うのです。意味不明のお経は単なるセレモニーに過ぎないのです。セレモニー化したお葬式がどれだけ故人に安らぎを与えるというのでしょうか。本来、お葬式はそのようなものではなかったはずです。いつか私も地上を去るときが来ます。この世に未練や執着を残さず、さっぱりとした心境で旅立ちたい。そのようなお経を上げてくださるお坊さんを望みたいものです。』 という投書がありました。

 曹洞宗では入棺通夜の正式なおつとめには「遺教経」(お釈迦さま最後の教え)を讀誦しますが、一般的には「大悲咒」が多いようです。私は「正法眼蔵生死」と「大悲咒」を讀誦しています。「遺教経」も「正法眼蔵生死」も聞いて分かりやすいお経といわれます。 しかし・・・ 「一度お経を聞いただけで、この世に未練や執着を残さず、さっぱりとした心境で旅立ちたい」とはむしのいい話。無惨な事件を起こし、被害者の心情を顧みることなく自殺したような人に一度の読経で「成仏できました」などというのでは冗談にもならない。正直、そんな自我をもってしてはいくらいい話を聞こうが読経をあげてもらおうが自己の器の中での妄想になってしまう。自己を越えたものを自我の範囲で得ようとするのは無理な話です。

 ところで、お経を聞くときの心構えとは、意味のわかるお経、ありがたいお経、声の良いお経といった詮索などせぬことです。お経の内容をアタマで知りたいのであれば解説書を読めばいい。意訳した般若心経で確かに一応の意味はわかるでしょう。けれども、意味がわかったからといって般若心経の真髄が会得できるわけではない。わかりにくいかもしれませんが、意味をさぐりながらお経を読もうとすると中途半端になってしまうのです。お経とは本来頭ではなく心で感じるものなのです。息をずっと長く吐きながらお経を読む。意味などわからなくとも木魚のポクポクと読経が一如となるところに微妙なる功徳があるのです。

箱根大涌谷 2003.10.29


 それはそれとして「わかるお経をあげて」の要望に少しでも応えるべく、仏典から引用してみましょう。「死んだ子供を生き返らせる薬」の話です。

 キサーゴータミーという若い母親が幼子を病の為に死なせてしまいます。その母親の悲しみ落胆ぶりは想像に絶するものがあったのでしょう。
 彼女は、人々が死んだ子供を火葬にするため運び去ろうとするのを引き止めて言いました。「息子を生き返らせる薬を探します」こう言って、彼女は家を飛び出しました。何軒も何軒も尋ね歩きます。ある人が言いました。「死んだ人を生き返らせる薬などあるはずもないでしょう」。しかし、彼女はあきらめません。村中を尋ね歩きます。その時ある人が「その薬のことはお釈迦さまに相談してみなさい」と話しかけました。
 そのころ、釈尊は祇園精舎に住んでいました。母親は「死んだ子供を生き返らせる薬をください」と懇願します。お釈迦さまは「その薬を作って上げるから白い芥子の実を貰ってきなさい」と言いました。「それならばたやすいことです。すぐに参ります。どこから貰ってくればいいのですか?」。お釈迦さまは「死者を出したことのない家から芥子の実を貰ってきなさい」・・と、そこで母親は喜び勇んで芥子の実を求めて出かけていきました。
 母親は村々を歩き回り、次々と家々を尋ね歩きますが、死んだ人のいない家を探すことなど出来ないことでありました。彼女は疲れ切っていました。そして気づいたのです−−−「死んだ人のいない家などないんだ。生きている人より死んでいった人の方が多いのだ・・・」と。冷静さを取り戻した彼女は、お釈迦さまのところへ向かいます。
 戻ってきた母親にお釈迦さまが語りかけます。「芥子の実を手に入れることができましたか」
「いいえ、死んでいった人の方が、生きている人よりも多いということがわかりました」
「キサ−ゴ−タミ−よ、あなたは自分の子供だけが死んだと思っていましたね、しかし、生あるものは必ず死があるのです。生き返らせることはできないのです。」
 お釈迦さまの教えを聞いたキサ−ゴ−タミ−はのちに出家して尼僧になったということです。

 生まれたものは必ず死にます。これはどうしようもありません。この法則をあるがままに受け入れる。認め、受け入れたからといって死んだ子供が生き返るわけではありません。けれども、そこから、また新しい生き方を学ぶということが教えの本分といえるでしょう。 

 檀家の若いお父さんが突然亡くなりました。朝いつものように除雪をし、顔に出来物ができたので出社前に病院に行き注射をしてもらったすぐあとで急変し突然不帰の人となってしまいました。近所の人達もあまりにも突然な出来事に驚き、「自分のことさえ大変だのに、あの家族はこれからどげして暮らしていくもんだべ」と同情が集まります。「あんないい人がなぜ死ぬんだべ」 「和尚さん、なんて言って慰めたらいいもんだべ・・」。
 「なぜ死ぬのか」 「なんと言えば慰められるか」−− それに対する言葉のマニュアルなどありません。たとえ百の言句を並べても、遺族にとって納得されることはないでしょう。悲嘆にくれる人を前にこれが完全な救いの言葉などというものはありません。
 一方、「生まれたら必ず死ぬものだ」と淋しさや悲しみに超然として、笑顔を見せる心境が「さとり」であろうはずがありません。心底相手のことを思うときには逆に何もいえない、答えられなくなることもあります。ただ、黙ってこらえるだけです。目と目をあわせ、相手の呼吸を感じ取り、手を握りしめて悲しみを共にする。これを「同悲」といいます。人は自分の呼吸が共有されたときに心が安らぐのです。
 「法華経」の一節に「常懐悲感 心遂醒悟」(じょうえひかん しんすいせいご)という言葉があります。「深い悲しみを胸の奥深くに秘めていると、その悲しみに心が洗われて、ついに悟りにいたる」という意味です。

白糸の滝 宮城県花山村