仏さまに手を合わせても 仏さまの願いを知る人は少ない
あなたは どこからきて なにをし どこへいくの

 いろいろなメールが入ります。
 御坊 「仏教」ということを一言で云えばどうゆうことですか?
 「聞くのは一時の恥、聞かぬは一生の恥」ということわざがあります。分からぬから聞くのか、どうなのかわかりませんが、問うにも仏教的にはいろいろあります。一つには疑問、疑いがあって問う。二つには不解問(ふげもん)、自分の分からないところを問う。三つには待問、これは口頭試問。四つには赴機問(ふきもん)、自分は分からぬことはないが、大勢の中に分からぬものがあるようなので、その人達に代わって問う、という四通りの問いがあります。問者はいずれに入るのでしょうか?
 ところで、字義からならば「仏教とは仏陀の教え」であり、その内容は「人が人として生きていく上での根本の教えと」といえるでしょう。この宇宙、人類を貫く真の原理、道理を学び、まことの人格主体を確率していくことを教示するものです。人の道を教える実践道でありますから「仏道」ともいいます。いわゆる「仏道」とは教えではなく「行」ですから、昔の禅僧ならば「三十棒(さんじゅうぼう)」 か 「喝!」です。
 「幸せになる為の教え」、そんな言葉を他人から聞いたところで役にはたたないでしょう。写真はまったくの素人が、プロカメラマンに「写真を上手に撮るコツを一言で教えてください」と聞いたところで、その一言のアドバイスで写真が上手くなる訳がないのです。挨拶もできない人に「取材って、どうすればいいのですか?」と聞かれても一言で教えられるものでもない。「まずは、きちんと挨拶ができるようにしないと・・」と言われるのがオチです。

蔵王の樹氷

 いつも、自分の気に入るような「答え」ばかりを求め、自分の気に入らぬものは認めようとしない心を「自我」といいます。「自我」の野放しでは、いくらがんばっても自我なるフィルムの範疇でしか見聞できないのです。 
 仏教とは何か・・・ ということは 「人生とは? 自分とは? 生きるということは?」 に対する教示です。自分自身の生き方は誰にも替わってもらえないように、人生に対する答えは「人生の真の価値あるもの」を自分自身で探し求めるものです。

無益(むやく)の句より成る
そのことば
たとえそのかず
千ありとも
それを聞き
心の寂(しずけさ)をうる
意味深き一句こそ
遙かにもまさる       (法句経)

 法句経(ダンマパダ)はダンマパダの漢訳経典です。現存する経典の中では最古のものともいわれます。ダンマパダは「真理のことば」の意味で、423の詩句から成りその教えは26章に分けています。ここでは、たくさんの言葉を知るよりも、たった一つであっても心にしみる言葉の方が勝ると示されます。
 歌にもありますが、生き方とはさまざまで「人生いろいろ」です。「人生いろいろ」で結構なんですが、人生の最後に「やさしい人だった」と言われたければ自重と精進が必要です。「仕事の鬼だった」といわれたければ、家族との時間や自分の時間を犠牲にして攻撃的なる仕事をしなければなりません。「因業じじいだった」と言われたければ、人に嫌われる為のたゆまぬ努力が必要です。「謎の多い人だった」と言われる為には、不審な行動をすることを常に心がけておかなければなりません。
 「自分らしく死ぬ」とは「自分らしく生きる」ということですから、入念で綿密な人生計画をたてておかなければならないでしょう。   失礼しました  ヽ(^_^;))