『もし我々にまったく欠点がなければ、他人の
あら探しをこれほど楽しむはずはあるまい』
ラ・ロシュフコー (文学者/フランス)

 人間関係というものはお互いさまなのに、一方的に正論とやらを振り回すやっかいな人はどこにでもいるものです。「四苦八苦」の八苦の中に「嫌なやつと会わねばならない苦しみ」という苦のように、いきなり豹変する人、人格までも否定非難する人もいる。そんな人が初体験なら自制心を失い、身体が震えたりして冷静な判断もできなくなってしまうこともあるでしょう。そのような特別やっかいな人物は例外として、イヤなやつとはクセの強い人ともいえます。そのクセが自分の感性を逆なでしてイヤなヤツというレッテルを自分が貼る。
 しかし、・・・ 畢竟、己の好き嫌いの分別であるなら「偏見」「自我」というものでしょう。
 すると−−
 「嫌いなやつは嫌い 家族や友人をののしられてもヤツから学ぶ事があると言うのかい?教えて?今のところ そんな仏さまには なれない。」 という返信メ−ルがきました。
 どんなことを言われたのかわかりませんが、自分が落ちついていられて家族や友人と仲がよければいいじゃないですか。ひどいことを言われても、いわれがなければほっとけばいいんです。そんなことをいちいち根に持つと自分の心の中に汚れがどんどん溜まります。そして、それは不思議なほど相手にも反映します。
 −− 『イヤな奴』だが、ヤツにもいいところがある。自分にできないこともできる。自分が知らないこともよく知っている。それについてはヤツの方が上だ。そのように見直してみるのはどうでしょう。そうすれば、 相手側に話を聞く余裕が無いときには、聞く余裕が無いということも反応のひとつだ、世の中にはいろんな意見がある。この人が言っているのはその一つに過ぎない、ぐらいに考えられるようになれる!・・・。
 「それができれば苦労はない!」という再返信でした。 


     笑顔は人一代の身だしなみ

 世の中、百人百様ですからすべて自分の思い通りにいくはずがありません。なのに、いちいちとらわれ憎しむから苦しくなるのです。あなたの正義を振り回して腹をたててくれなんて世間では誰も思っていません。相手が自分を肯定しないから腹を立てているのでしょうが、相手だってそんなあなたを好ましく思うはずもありません。確かなことは、勝手に怒っている自分自身が不幸になるだけです。「こんなことを言われてされるがままになっていろとでも言うの?冗談じゃない!自分を守る権利がある!」という憎しみや怒りをもつことで、自分自身に強烈な毒が発生します。その毒でまず自分自身が不幸になってしまうのです。

 お釈迦さまは悟りをひらかれた後、初めに五人の比丘のために教えを説きはじめられます。これを初転法輪(しょてんぼうりん)と呼びます。 お釈迦さまが五人の比丘に何を説かれたかといいますと「四聖諦」です。諦という字はあきらかにするの意で、四つの真理という意味です。

  「四聖諦」(ししょうたい)
1.苦諦(くたい)  ・・・・・ 苦に関する真理
2.集諦(じったい) ・・・・・ 苦の原因に関する真理
3.滅諦(めったい) ・・・・・ 苦の原因を克服する為の方法に関する真理
4.道諦(どうたい) ・・・・・ 苦の克服の為の実践に関する真理

1.苦諦とは我々が生きるということは本質的に苦であるというお示しです。その基本的な苦として「四苦八苦」を説かれます。四苦とは、1.生(しょう) 2.老(ろう) 3.病(びょう) 4.死(し) です。
あとの、四つの苦が、 
 5.愛別離苦(あいべつりく)愛するものとの別離の苦しみ
 6.怨憎会苦(おんぞうえく)怨み、憎む者に会わねばならぬ苦しみ
 7.求不得苦(ぐふとくく)諸行無常と諸法無我を理解できず、求めるものが得られない苦しみ
 8.五陰盛苦(ごおんじょうく)物質界と精神界のいっさいの事物現象をもてあます苦しみ
 この6番目の怨憎会苦を考えます。 嫌な人と一緒にいると、相手の嫌なところばかりが気になってしまうものです。嫌だと思う心は、相手の良いところは見えないという心の裏返しですから、小さなイライラでも少しずつ少しずつ自分の心に怒りの火を焚きつけることと同様ですから、いつしか自分でも信じられないほどの憎悪になってしまうのです。けれども、自分の幸福をこわすのはその「憎悪の相手」ではありません。それは、いつまでもイライラと憎み続ける自分の「我」であるという教えです。
 偏見は偏った見方で悪い癖といえます。癖という字は「やまいだれ」ですから病気という意味です。辟という字は人扁をつければひがみっぽいという意味になり、土という字を下につければ壁となります。人に何か言われて腹が立つのは「自分が正しい」と思っているからです。とらわれがなければ、「指摘してくれてありがとう」「さすがだね」と対応できるものです。


 信心銘という経典に『六塵(ろくじん)悪(にく)まざれば、還(かえ)って正覚に同じ 智者は無為(むい)なり、愚人は自縛す』というお示しがあります。
 六塵とは色声香味触法(しきしょうこうみそくほう)。眼にあっては色、耳は声、鼻はにおい、舌は味、肌は触覚、意識の対象には法、これを六塵といいます。正覚とは仏さまの悟りです。六塵にとらわれこだわりがなければどこにでも幸福がある、幸福に至るところの道ならざる世界はない。そうであれば、それは正覚と同じであるということです。人間はそれぞれに環境や生い立ちも百人百様ですから気性の合う合わないは当然あるでしょう。 しかし、「袖振り合うも他生の縁」ですから出会いを否定して生きるのでは淋しい人生になります。六塵にくまざればということも無念無想も無我観も、つきつめれば「自我」なるとらわれに気づくことでしょう。
 智慧あれば、相手が触れてほしくない話題かどうかは表情や所作からわかるものです。その時に「あっ、この話題はここで辞めておこう」と気づけるかどうかです。さらに「気づいた」というそぶりもみせることもなく、さりげなく話題を変えられる気づきが「大人」というものでしょう。 相手のことを嫌っていたら、それは必ず顔や態度に出てしまう。無表情な相手の話しなど聞きたくもないでしょうが、それは相手も同じことです。わかりあえないというのは相手のせいだけではない。相手が自分を評価してくれなくても、それは自分の問題ではなく相手側の問題です。イヤなヤツだとイライラするのは畢竟、自分に自分が満足できず自分の苦手を自分が受け入れられないからということになるのです。
 禅では「無事是貴人」(ぶじこれきじん)という言葉で理想的な人間像を提案しますが「無事」というのは、外側にあれこれ求める心を調和している状態のこと。 智者は無為(むい)なりとは、文句がない、とらわれない、振り回されないこと。愚人は自縛すとは、あればあったで、なければないで振り回されてしまうことです。 
 昔から「癖ある馬に能あり」といいます。京都大学の元総長の平沢先生は「欠点が気になるうちは駄目だ。欠点が長所に見えるようにならねばならない」と示されます。元総持寺貫首の板橋興宗禅師は「欠点があるから 味わいがある」と示されるように、人はそれぞれに色々違うからおもしろい。相手の感情にも呼吸を乱さずに上手に聞き流す術、自分とは違う考え方として前向きに聞く術を会得すれば、自分の考え方や価値観にも幅が出て、人を見る目も確実に深くなるでしょう。

蔵王 お釜  平成16年6月撮影