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いじめの問題は社会的な問題と家庭的な問題があると思います。
社会的問題とは、「ホームレス襲撃事件」に例えれば、現代では「ホームレス」に対して体よく排除する風潮が感じられるのです。私の小さい頃にも「お乞食さん」はいました。ほとんどの家庭ではその「お乞食さん」にやさしい言葉をかけ恵む人が多かったと記憶しています。他所からの者であっても排除するのではなく、そういう人を受け入れる道徳というか社会環境がありました。
現今では、神戸の児童連続殺傷事件以来、変質者や不審な人から地域の子供を守ろうという動きが強まって、「子供の安全を守る」
というPTAや警察の冊子でも「近くの公園にホームレスがいたらむやみに声をかけたり近づかないようにしましょう」
という内容になりました。
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「おはよう」「こんにちは」「さようなら」などの挨拶の言葉をかけあって活き活きしていた地域も・・・ 今は、知らない人に声をかけない、声をかけられたら逃げる、防犯ベルで助けを求めるというような指導になっているようです。山新のコラム欄には「冷たい雨が降っていた午後、女の子が傘もささずに歩いていた。学校の帰りなのだろう。四メ−トルばかり後ろを歩いていた私が「この傘に入っていかない?」と声をかけたら見開いた目で私を見上げ、激しくかぶりを振った。そんなにぬれては風邪ひくよ、と言った私を一度振り返ってから、赤いランドセルを揺すって走り去った。おそらく、知らない人には絶対ついていくなと親から言い含められているのだろう。ずぶぬれになって走っていった子の、泣き出しそうな目が気にかかってならない。・・・見知らぬ人とはかかわらずに暮らそうとする風潮が、幼い子たちを頑なな心にさせてしまわないか、という危惧だ。
又、小学校のある生徒が帰宅途中の工事現場でのこと・・。ちょうど休憩時間中だったようでたくさんの作業員が道ばたに腰をおろしていた。「あいさつ運動」に力を入れている学校でもあり、登下校の際にも会った人には自分から挨拶をするように指導されている。その道を通らなければ帰れないその子供は勇気をふりしぼって「こんにちは」と挨拶をした。ところが、その返事は「知らないおじさんに挨拶なんかしちゃだめだ。どこかに連れて行かれてしまうぞ」。その子供は驚き、返事もせずに走ってその場を通り過ぎた。頑張って挨拶したのに−−と言う。作業員さんたちが掛けた言葉に悪気があったわけではなかったでしょう。むしろ一人で下校する小学生を心配しての言葉だったに違いない。そんなことを考えると、穏やかな眼で会釈するだけの挨拶を教えておくことも必要なのかなとも思う。
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| 銀山温泉 白銀滝 平成17年春撮影 |
家庭的な事例として考えると、大家族時代には家族構成そのままが絆となり教育となっていたのですが、核家族化の現代では、多くの子供たちは幼稚園、学校、学習塾などで知り合った者だけの範囲になってしまったようです。子育てにあたる親にしても同じようなものです。昔なら同じ育児問題をかかえても家族で相談ができた。それが現在では相談相手の無い親自身が疲れてキレてしまう事件が頻発しています。昔、子供は「授かりもの」でした。けれども今は経済が優先して「子供を作るか作らないか」、そこから考えますから「授かった」という思いも忘れがちになるのでしょう。本来、「授かった」という思いであれば子供のことで苦労をしても自分を犠牲にしているとは思わないものでしょうが、親としての自覚に余裕がないから子供の気持ちを慮る余裕もなくなくなる。それが、育児や教育に対し自信を無くし、育児ストレスとなり親子とも不幸となる事件が増えているように思うのです。
さて、過去のことばかり指摘していても仕方がありません。因のない結果はないということをまず言っておきたかったからです。 家庭で愛に飢えた子供たちが、何事にも独占欲が強まるのは既に知られていますが、更に求めるものを得る為には邪魔と思える存在には攻撃をしかけていく。
平成12年2月愛媛新聞の投稿欄に載ったという詩をご紹介します。
電 話 山本愛子(13)
友達から電話があった
いやだった
すぐ切りたかった
「遊ばん?」
「ごめん、今日いけんのよ」
友達は電話口でボショボショと話し合っていた
「あんたよくことわれるね」
「えっ?」
「あんた自分の立場わかっとるん?」
「うちらがおらんかったらあんた友達おらんので」
「うちらがその気になればあんたを学校中からシカトできるんで」
私はすぐあやまった
「ごめん」
だけど友達はキレていた
「あんた死んで3階からとびおりてや」
「自殺してや」
私は本当に自殺したい気持ちになった
涙をぽろぽろ出しながら
私は「ごめん」とあやまり続けた
もしこれが現実だったら
あなたたちはどう思いますか? |
まずは、このようなことでお悩みの方がおられるとしたら、そのとるべき所作については《いじめの問題(被害者の場合)》をご覧になって下さい。
もしも、上記のように自分の子供がいじめる側になっていたら大変です。いじめや万引きも初犯の時の対処が大切です。やっていいことと、悪いことを愛情をもってしっかりと諭すべき時です。「いじめは悪いこと」「いじわるをするのは悪いこと」とじっくり向き合わなければなりません。「もしお前が同じことをされたら・・ どんな気持ちがする?」 「そんなことをいわれた人が、どんな顔をしていたか憶えてる?言われた人がどんな気持ちだったか・・・ 考えてみたことある?」 と 頭はク−ルに心はホットに子供の思いに寄り添えば子供が何を言いたいかが見えてきます。
大切なことは、しつけや教育は一度でダメならまたやるんです。 「必ず立ち直る」と信じて笑顔をもって辛抱強く何度でもやるんです。もしも、 自分の息子や娘が他人の子をいじめたら、高そうな菓子折を持っていじめた子の家まで引きずっていってでも謝罪してください。あなたにも言い分はあるでしょうが、自分の子のいじめや非行は、まず『いじめる方が悪い』とはっきり示すのです。いじわるをされる子とは、やさしく、人に怒りをぶつけるよりはガマンする子に多く、けっして弱いとか悪い性格とか思いませんが、ガマンし憎むような思いになれば態度にも出るでしょうから、そこがまたいじわるを受けるきっかけになってしまうのでしょう。いずれにしても、『いじめる方が悪い』とはっきり示すのです。いじめた子の家でお詫びをする時、親は恥をさらして謝まってください。そんなあなたの姿を子供の目に焼き付けるように謝ればいいと思います。あなた自身が恥をかく姿を心と体に刻むことでしょう。あなたが恥をかくことを教えなければ、子供は恥とはなにかということに気づきません。「恥」とは、泥棒の子分が親分に「盗みそこなって申し訳ありません」とあやまるような低レベルのことではないのです。
いじめの問題は、いじめいじめられる人のことではなく、いじめをしてしまう人の心の問題なのです。
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| 銀山温泉 洗心峡 |
心静かに子供の本音に傾注すれば「自分を認めてほしい」ということが見えてくるでしょう。彼らなりに自分をわかって欲しいと表現している行動です。親や子供、教師、少年院での法務教官の暴行事件など殺伐とした事件が頻発しています。いじめの遠因は複雑です。それを因縁として、身勝手、思いやりの欠如、忍耐力の欠如、協調性の無さということに発展します。この「自我」をどのように受け止め、どのように教えるかということですから親自身、指導者の心が大切なのです。
◎ 親自身にけじめのある生活姿勢があること。
《子供は親の生き方をきっちり見ているのです》
◎ 「へ理屈」にも耳を傾け、好意的な態度で良い方に受け止める
《目を見ておだやかにしっかり話しを聞くこと》
◎ 上下関係をもって話しをしない。
《「親にむかって何だ!・・・」など、論外です》
◎ 感情的になって怒らない。
《どんな立場であっても感情的になっては不信のもとです》
◎ 「誰それを見習え!」−−比較はいけません。
《何を言わなければいけないのかに的を絞る》
◎ 他の権威を借りないない。
《「お父さんに言うから・・」とか「先生に言うから・・」など》
◎ ささいなことでも認めて評価をする
《「どうせおまえのレベルでは・・・」などとは最低です》
◎ 疑い深い態度ではなく信じてあげる。
《信じてくれなければ、ホントのことなど言いません》
◎ いつも心に掛けておく。
《声をかけることはこころをかけることです》
お釈迦さまは「一切衆生 悉有仏性」(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)と示されました。どのような自分であっても他人であっても一切の存在が仏性です。仏教で説く「一」とはナンバーワンのことではなくオンリーワンのことです。人にはそれぞれ体力、才能、素質で社会を発展させ、世を楽しく明るくしてくれるすばらしい人達がいますが、多くの人はそんな才能や素質をもっているわけではありません。そんな才能や素質が無くとも、欠点だらけのようであっても存在そのものが「仏性」ということです。
自分自身に心に余裕があって「仏性」を前提にできれば叱ることは教育となりますが、そうでなければ自然と説教調のグチ口調になります。親が子供の言葉の裏にある思いに寄り添うならば、自分自身が安らぎの心となり自信となるでしょう。
お地蔵様の真言は「オンカーカーカビサンマエイソワカ」、意訳で「おんにこにこ腹立てまいぞやソワカ」と先達は示されます。苦しい時にもオンニコニコと精進したいものです。
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| 紅花 H17年7月撮影 |
万一自分では手に負えない場合には、地域の関係者や公的機関に相談するのも確かな方法です。
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