よき出逢いをにつ
 
錦秋の鳴子峡
福沢諭吉は「学問のすすめ」の中で、すべての学問は人間交際のためにあるものだと示唆しているように、人生は他者とのコミュニケ−ションで成り立っています。故に、他人との対話能力が高いほど豊かに生きる術を多く持つことができるでしょう。その交際に役立つ情報ツールは更に大きな機能を発展させ、もはやそれなしでは生活できないくらいに広く深く浸透しています。
 一方、情報ツールの進展の割には、それが無かった時代よりも自分と他人の関わり方、自分と他人の「間」をどんな関係にすべきかの基本認識が低下し、周囲に対してのおもいやりの気持ちを失いつつある人が増えていると感じるのは私の錯覚でしょうか・・。

 ところで、腹がねじれんばかりの落語も文字表現だけではおもしろくないように、表情の見えないメールでは微妙なところが伝わりにくいし信用もできにくい。むしろ、そんな間接的なものに依存し過ぎると人間関係がいつのまにか稀薄になってしまう。会話とは字の如く会って話すこと。インターネットにいくら堪能であっても、笑顔で対話することができなければ何の為のツールかわからなくなってしまうでしょう。
 人は学力だけではわからない。故に面接試験があるように、考え方、態度、言葉、服装のセンスなどの全てが人格を形成します。積極性、誠実さ、ものの考え方などの内心を見抜くには表情、まなざし、口調、態度のほうが分かりやすい。「なんで」とか「どうして」という言葉は相手の心を和らげる言葉ではないのですが、ズ−ズ−弁であっても、なまっていても、やわらかい心で話すからぬくもりが伝わるのです。歌謡曲「孫」で大ヒットした大泉逸郎さん(山形県出身)は「孫」の歌唱指導のなかで「なんでこんなに可愛いのかよ」の「なんで」の「で」に心を込めないといけない。会話でも『「なん」と「で」を大きな声で言うからいけない。「で」は小さめの声で心を込めんのよ』と皆を笑わせながら教えてくれました。

 出会いによっては、その後の人生を決める分岐点にもなる。けれども、めったやたらに出会いを重ねても薄っぺらなものになる。人生を豊かに生きている人との出会い、自分の知識を更に開かせてくれそうな人との出会い、その出会いとは誰にでも必ずあるはずであるが、出会いの続きを作れないのは、本当の「自分」との出会いが無いからといえるだろう。ここを見逃すと、暗い人は暗い人生になり、格好だけの人は格好だけの人生になり、ケチな根性を起こしている人はいくらつくろい飾ってもケチな人生になってしまう。
 マスコミを賑わせる有名人の離婚問題も多くは「知らない」ということではないでしょうか。相手の話をよく聞かない、よく聞けない。相手を知らず自己を知らないから感情を伝えることを知らず感情で相手を否定してしまう。「自分らしさ」と「自我」が混濁してしまうということです。肯定や受容が知ることの第一義なのに忠告や指示になってしまう。妻や夫が相談めいたことを言った時に、「何が言いたいの?」「要するに何?」と結論を急ぎ、「じゃあこうしろよ」「そんなにイヤなら辞めれば」というような意見になってしまう。「そうだよね」「そっか、なるほどね〜」「大変なのねー」という情感をなおざりにして、「それは間違っている」「私を怒らせないでよ」「そう、絶対そうよ」となってしまう。 
 愛憎という言葉があるように、好き嫌いは表裏一体、恋しく思えば思うほど、「絶対ゆるさない!」という思いが強くなるのは凡たる心のはたらきです。愛する人に嫌いなところがあるということが絶対許せないというのを「エゴ」と示すのです。愛するとは知ること。この人はこういう人なんだなと知ること。人間とは誰でもしっかり見ているようではあっても、百人百様で自分で見たいというものしか見ていないもの。その自覚や自重がなければ智慧の発揮はできません。忍は刃という字の下に心と書きます。じっとこらえなければ刃が頭に落ちてくるという、全くよくできた字です。

栗駒山 須川湖にて 平成16年秋

 「浮気はいいのか悪いのか」−−「良い!」「悪い!」「本気でなければ良い!」云々と再々テレビの激論がありますが、男女が求めあうのは自然の理法。 しかし、辛抱も修行! 性欲に限らずすべての欲とは「因縁生(いんねんしょう)」。心がぶれて人生に退屈をしている時が危ない。心穏やかな時には、「おっ妄想が起こってるな」「上手に妻の尻に敷かれる方が幸せだな」と自分を見つめることができるが、のぼせあがっている時には人の奥さんでもひっつかまえようと夢中になる。刃傷沙汰のようなひどいトラブルが起きるのはほとんどこのケースです。 

  『大智度論』で示す不倫による10種の罪です。
 @ 相手の夫から危害を受ける
 A 夫婦げんかが絶えない
 B 悪いことばかり起きる
 C 家庭が不和になる
 D 財産が無くなる
 E 悪いことがあるとすぐに嫌疑をかけられる
 F 親兄弟、知人に見放される
 G 周囲に恨まれる種子をつくる
 H 病気がちになる
 I 次の世で女性に生まれたならば多くの男性で苦しむ。
 
   ・・・ 説明など不要でしょう 
 夫婦としてのあるべき道を「六方礼経」で紹介しましょう。
補足 六方とは、東方を礼するは親を敬するなり、南方を礼するは先生を礼するなり、西方を礼するは妻子を礼するなり、北方は友達を礼するなり、上を向いて礼するは神仏に礼するなり、下を向いて礼するは従業員(一切衆生)を礼するなり。つまり、すべてに感謝する心をもつということ、しあわせになる為には「ありがとう」の心を忘れないことです。
 西方を礼するは夫の妻を敬するなり。すなわちこれに五つの意義あり。
 @ 妻の人格を尊重す。
 A 妻を正しく熱愛す。
 B 金銭、衣服、装身具を与う。
 C 経済、家事、育児をまかす。
 D 妻の両親を敬愛す。
 
妻もまた、夫に次のような心がけをもってせよ。
 @ 夫を敬愛す。
 A 夫に従順する。
 B 夫によく従う。
 C 夫の仕事を補助する。
 D 家庭生活を大切にする。
 E 愛嬌を持つ。
 F 人に親切にする。
 G 愛語、誠実の言葉を使う。
 H 訪問者をよく迎う。
 I 人格者をほめる。
 J 家を清潔にする。
 K 栄養ある料理をつくる。
 L 宗教者を供養する。

 ある夫婦が釈尊に問いました「私たちは今世で添い遂げたいし、できるなら来世でもまた出会いたいと願っているのです」と・・ 釈尊は申されました「二人が同じく信仰を確かにして、同じく道徳を守って、同じく執着をなくし、同じく智慧をみがくならば願いはかなうであろう」

 脳の研究は秒進月歩で展開しています。脳内ホルモンのド−パミン・セロトニン・ノルアドレナリンが性格要因に関係することも判明しました。薬によって性格は簡単に変えられると医学者は言います。さらには左側頭葉の特定の部位に電気刺激をあたえると、宗教的?エクシタシ−が生じて、歓喜の涙が滂沱とあふれる。あるいは、脳波の電気信号をロボットに送れば思い通りに動かせるし、ロボット以外にもそれは可能とか・・。
 しかし、幸せの薬を使っての幸福というのでは、幸福は幸福でも幸福の質が違うのではありませんか?
 宗門の教えとは「身心一如」ですから、心と体を分離してしまう二元思想ではありません。仏教でいう「心」を頭で解決しようとすれば「観念論」になります。観念論では「私はその一如という言い方が嫌いだ。身心一如の生と死も一如だということは、善と悪とが一如だということと、原則的に変わりないように思う。善もいいし、悪もいいと云えるのか」と −− 他にも「悉有仏性ならば原子爆弾も仏性なのか?」という合理の正論は更に非合理を生み出す。仏性=悉有仏性と囚われれば迷路にはまる。自由と奔放を混濁したり、平等が悪平等にならぬよう、権利が自己主張の隠れ蓑にならぬよう、不染汚なる無の智慧で悪の虚妄性・染汚性を見抜く力がなくてはならない。「悉有仏性」をどういう脈絡で理解し体解するかが重要なところです。
 しんしんとキーボードを打つと「心身」となるが、道元禅師は「身心」と示される。この「身心」を見直したいと思うのです。弓で例えれば、呼吸を整えれば自然に矢が放たれる瞬間というものがわかる。なんとかして当てようと思うことを弓道では最も嫌うという。武道や茶道も禅も、作法を守ってやっていけば自然に動きが生まれ、自然に技がかかる。ここを目指して身体を調えることによって脳を調えるのが「修行」というものと思っていますが、生と死は相対するものと固執する脳には理解不能の世界なのです。更に、修証一如(目的と手段が一致している)、不生不滅、生死不二、煩悩即菩提、生死即涅槃などと言えば尚更混迷するでしょうが、ここが「禅」のねらいなのです。 

由良 白山島   平成17年秋撮影