![]() 昭憲皇太后 |
並の芸能人がかなわない知名度のIT 産業の申し子H氏が逮捕された。ところで、今、本屋さんにいくと棚二つ分ぐらいはネット株の本で占められている。H氏は資本主義の旗手のように大量の個人投資家を呼び込むのに貢献はあったといえるだろうが、子供までもが「クリック一つで稼げる。株で儲ける方法」が話題に上がる。・・どうしたのと言いたいぐらい儲け話しが氾濫するようになった。 ところで、お釈迦さまはお金についてどう示されていたか?
ある日、マガダ国王のビンビサーラ王が王舎城にやってきて釈尊とお会いになります。ビンビサーラ王は釈尊の人格にいたく傾倒し、還俗してマガダ国に仕官しないかと誘うのです。 「そなたが還俗すれば、マガダ国の半分を譲ってもよいぞ!」 −− その時のお釈迦さまはまだ修行中の身で、悟りを開いた仏陀になっていません。ですからビンビサーラ王の申し出は破格の仕官の誘いだったのです。しかし、お釈迦さまは、そんな申し出をにべもなく辞退されるのです。先に申しましたように、お釈迦さまは小国といえども一国の太子だったのです。その地位と身分を捨てての出家です。自分の富を得る為、欲望をかなえる為の出家ではないのです
仏教では、飢えに苦しみガツガツしている状態を餓鬼(がき)と呼んでいますが、この餓鬼には、1.無財餓鬼 2.小財餓鬼 3.多財餓鬼の三種があると示します。 財がもともと無かったり少なかったりすればガツガツする理由はわかるのですが、三番目の多財餓鬼(たざいがき)というところが注目すべきところです。この餓鬼とは、たくさんの財産を持ち、豪華な生活をしていても満足できないのです。 本当に幸せな人とは100円のボールペンでも粗末にしないものです。それはお金の問題ではなく、気持ちの問題だからです。 反対に餓鬼とは嫉妬や執着をもって生きていますから、その身体に適した情報を仕入れることになる。それで益々妄想は大きくなるばかりですから餓鬼の寿命は長くなるのです。 イエスは「金持ちが天国に行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と戒め、マザーテレサも「飢えには食物を、病気には薬を与えれば治りますが、富める国の人々の心の病気には、与える食物も治す薬もないのです」と諭します。 道元禅師は 「学道の人はまずすべからく貧なるべし。財多ければ必ずその志を失う」(正法眼蔵随聞記) と示されます。道を学ぼうとする人は、まずその条件として貧なるべしというのです。 お金は重宝なものです。調子づきさえしなければ実に有り難いものです。一方、僻みさえしなければ貧乏であっても笑顔で暮らせます。逆に貧乏故に向上心が増すということもある。もちろん貧自体が学道というのでもなければ、貧に甘んじるのが学道というのでもない。「身貧にして道貧ならず」というは、貧を苦にせず貧を憂えずして「放てば手に満てり」の世界ですから頭念の世界ではないのです。 釈尊は「諸々の苦悩を脱したいと願うのなら、知足(足を知る)を観ずるがよい。知足の法は富楽安穏の教えである」「足ることを知る人は、たとえ地上に臥(ふ)すというような生活であっても、なお安楽である。足ることを知らない人は、天堂(贅沢な暮らし)にて生活するといっても、なお満足や感謝がない、故に、むしろあわれである」と示されています。 人間にはいろいろの欲があり欲求には際限がありませんから悩みもさまざまです。その、さまざまな悩みの根源はというと、「自分の思い通りにしたい」という欲望というのです。この欲は向上心にもなりますから「欲」を無くせというのでもない。一般的には、むしろ、この欲が無くなったら味気なくなるでしょう。 しかし、足ることを知らなければ麻薬中毒にも似て、止めるに止められず、持てば持つほど欲しくなる。自分の欲望で自分が自分で自分を駄目にするのです。 「少欲、知足」とは、在家出家を問わず人間の欲を戒めた教えです。仏教では決して無欲、禁欲、断欲といったように、一方に偏った考えではなく中道の教えとして「欲」を肯定しての「少欲、知足」といえるでしょう。 欲というのは自然な生命力の現れでもありますからなくてはならないものです。大切なところは高慢にも卑下にも陥らずとらわれないこと。「欲」を肯定しながらも欲を自制する「願」を「少欲」と示されるのです。
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