[性暴力」という題名にひかれただけのご縁と思います。
けれども
もし ・・・ でしたら
だまっていることはありません。むしろ、黙っていると被害はそれにとどまらないでしょう。なぜなら、そんな加害者の心理は、被害者である女性をひとりの人格として尊ぶ認知がないからです。
性的逸脱行為は放っておけばエスカレ−トしてスト−カ−から殺人にまで至ることもあります。性的犯罪者には生育歴や心理状態などに大きな問題を抱えているといわれます。それは普通に生活している人の観念を超えている状況と思われますから、何とか理解してあげようなどと思わず信頼できる方に相談し、法的制裁処置をも含めしっかり心すべきでしょう。
しかし −−− 復讐は善くありません。
侮辱的屈辱的被害を受ければ精神的にも肉体的にも大きく傷つきます。強姦罪などは殺人罪にも匹敵する犯罪と思います。「殺してやりたい」とする復讐心が起こったとしてもそれは当然のことでしょう。けれども、復讐は厳に忍ぶというのが忍辱ではないかと思うのです。
しかし、被害者や家族にとっては「怒るな」「怨むな」といっても無理なことかもしれません。「忘れろ」と言われたらきっと怒り出すでしょう。脳の機能としても、自分の意志で過去を忘れようと意識することはできません。逆に記憶を強化させることにもなります。かといって、一生忘れずにとことん怨み、とことん憎んで、その結果がどうなるかといえば、たとえば吉村昭「敵討」(新潮社)の如くになるでしょう。早く忘れたいというのであれば、過去ではなく未来のことに意識をむけるしかありません。
あなたがそんな復讐で自分を汚さなくとも、かならずその裁きは下ります。忘れてならないことは、復讐とは怨み心を持っているということ。その怨み心を言葉にすれば必ず悪い言葉を吐いて自分自身をも損なう。我慢しきれない思いを晴らす為の復讐では、憎しみを投げつける前に先ず自分自身が自分の憎しみで汚染されてしまうのです。愚痴や怒りと同様に、他人を恨むという行為は相手に対する強烈な否定です。憎しみにこだわり囚われるのを執念、あるいは怨念と呼ぶのです。復讐をとげてもむなしいのはその為です。
悲惨な事件によっては加害者に死刑を望みたい気持ちになることもあるでしょう。しかし、仏の心とは罰するというような考えをもってはいけないと思うのです。世の中の人が皆自分と同じように恵まれているわけではありません。悪いことをしたから罰するというのではなく、「あなたがこの世界にいると他の人に迷惑をかけるから、しばらくここに入っていて貰うぞ」そういうような説明をされている方がおられましたが、ちょうど伝染病患者を病院に入れて隔離しておくようなものと考えればいいのかもしれません。
人を憎み恨む−− これは人間として一番不幸な状態です。人を怨み、人の過ちを許せない人は心の土台が傾いているようなものです。反対に、人の痛みを自分の痛みとして感じ、人の悲しみを同じ悲しみとして受けとめ、人の喜びを同じ喜びとすることができたら、それが、人間のいちばんいい状態ではないでしょうか。変えられない過去にいつまでもとらわれているというのは不幸なことです。恨み怨む心とは傾いた土台の上に建物をつくるようなもので、いつか自分が壊れてしまいます。逆に、それも「天命」と受けとめあきらめることができれば、運命にふりまわされない自由が得られるでしょう。こだわるべき要点とは、嫌なことを考える心の場所を与えないように前向きな考えにこだわる。それを「願(がん)」というのです。 「願」をもって悲しみや苦しみ、批判や屈辱に耐える時、いのちを見つめる目も深くなるのです。
さて、お釈迦さまとウッパラヴァンナーの話です。
お釈迦さまは初期教団の頃は女性の信者を認めなかったといいます。
けれども、人生の苦悩からの解脱を望む者は男性に限りません。そこでついに、お釈迦さまは女性の信者を受け入れることを決意します。女性たちはやがて比丘尼教団をつくり、優秀な人材を生み出していくことになります。ウッパラヴァンナーとは比丘尼の名前ですが、蓮華のように美しいという意味があります。これは、そのウッパラヴァンナーが出家してからのお話しです。
ある日、ウッパラヴァンナーが托鉢に出ると、昔から彼女に恋い焦がれていた一人の青年が、かねてからの思いを遂げようと留守中の庵(いおり)に忍び込み、隠れて彼女を待っていた。そして、庵に入ったウッパラヴァンナーに乱暴してしまった。
これを知った修行僧の中には「いくら悟りに達した者でも欲情はある。乱暴されたときに、快感がなかったはずはあるまい」などと言いだす者があらわれた。
そのような時に、お釈迦さまは次のように語られたという。
「蓮の葉に落ちた水滴が、葉に止まることなく転げ落ちるように、悟りに達した者の心には、いささかの愛欲も止まることはない」
こうして、ウッパラヴァンナーには、何の罪もないことを、皆の前で明らかにしたというのです。
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| 秋田県十文字町 皆瀬川 平成16年12月(後方は鳥海山) |
「天使になりたい」福井雅世さんのペ−ジに次のような話がありました。
ボスニアの修道院で、暴行を受けて身篭ったシスターが、院長に渡るかどうか分からない手紙を書いて逃走したという、その時の手紙の文面と云います。
院長さま
わたくしはこのまま、去ります。おなかの中にいる子と一緒に。
貧困がわたくしを待っていますが、母とふたりでふるさとの森に樹脂をとりに行って生計をたてるでしょう。
そしてわたくしは、われわれの土地をズタズタにした憎悪怨念というものを断ち切るという、人間にとっては不可能なことを、こんごの一生の仕事といたしましょう。
生まれて来る子に、わたくしは日々刻々たったひとつのことを教えたいのです。すなわち「他人を、すべての他人を、愛すること」。暴力憎悪によって生を受けたその子が人間にとっての唯一の名誉つまりゆるしの生き証人となるように…… 愛とゆるしによる和の建設者とその子がなるように……
人間生活とは、あれが悪い、これが良い。こっちは好きであっちが嫌いと常に取捨選択の繰り返しです。その取捨選択の上手下手が人生ともいえます。 しかしながら、どのような宗教であっても、つまるところ、この取捨を放棄する姿勢がなければ、修行や修道にはならないでしょう。
「ゆるす」を辞典で引けば20字以上もあります。「聴」は広く聞き従いゆるす。「允」は相手の言うことをかどをたてず聞き入れる。「原」はもとをたずねて情状酌量する。「又」はひとをかばう。「宥」は大目に見てかばう。「饒」はゆとりのある態度で大目に見る。「態」はやんわりと堪える。「貸」は寛大に扱う。「赦」は過ちをとがめず。「縦」は解き放してゆるす。「怺」は苦しみをこらえてゆるすなどです。ゆるすということは畢竟、時に狂気にまで至りそうな自分を転化昇華させなければならないのです。ゆるすということは、まさにゆるせないことをゆるすことですから菩薩の心がなければできることではありません。この「取捨の放棄」というのは観念や理念ではないのです。堪え忍び、我慢することは「堪忍は無事長久の基」ですから大切な修行です。しかし、自分をズタズタにした「憎悪怨念」の相手であっても、目の敵として放棄するならば、努力して放棄するという「取捨」になってしまうのです。「ののしられた.いじめられた」といつまでもこだわることは頑迷です。そんな迷想を反芻するのでは心の中に不幸の塊を溜めこむようなもの。一方、「忘れよう、忘れよう」と思い込めば思い込むほど記憶の底に刻み込まれるのも事実です。努力して放棄する、或いは記憶にカギをかける精神作業というのでは、放棄どころか強固な妄念を作ってしまうのです。
道元禅師の「正法眼蔵随聞記」には『 人は我れを殺すとも 我れは報を加えじと思い定めつれば 安楽ならずと云う事無し
』と示される。また、ローマ五賢帝の一人であるアウレリウスは「自省録」の中で、『もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ』と示される。自分を本当に傷つけるものは他人ではなく、畢竟自分であるということでしょう。そして憎しみは佛の心の眼を閉ざしてしまうのです。「煩悩即菩提」とはいっても、煩悩がさとりと出会うのは矛盾する。憎しみが愛と出会うのも矛盾する。けれども、「許す」という行為には大きな自浄作用があって固執している心を解き放ってくれるのです。このことは、理性ではわかっていても実行することは本当に困難なことです。それゆえに、暴行を受けて身篭ったシスターが、生まれて来る子に、「他人を、すべての他人を、愛すること」「愛とゆるしによる和の建設者とその子がなるように・・・」には強く心を打たれたのです。
ネットサ−フイン中の一瞬のことでしたが、上記の文面が脳裏に焼き付いたのです。
状況がどのようであっても「ゆるせる」人となる時は菩薩さまです。観音さまです。マリア観音さまです。
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| 秋田県十文字町 皆瀬川 平成16年12月撮影 |
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