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東京の小学校教諭である知人と盃を傾けている時のこと、彼は「永平寺に行って来た!」と語った。「戒名など必要ないんじゃないか」と公に言う彼の、「大本山永平寺参拝」という話しは実はうれしく思ったのでした。 ところが、次の言葉は 「あんなところには二度と行かない!」。その訳を尋ねると、『俺よりず−と若い坊主が、えらそうに、お客に対して「正座をして話を聞け」だの「廊下を歩くときには静かに」「鳴らし物を勝手に叩かないように」といちいち指図されプライドを傷付けられた』というのです。 (゚゚;)\(--;)
諸堂案内は上山間もない修行僧の担当が多く未熟さも当然あるとは思いますが、俗臭芬々のまま諸堂をめぐり、参拝の証拠に御朱印を押しては意気揚々と次の観光地へ・・ せっかく本山参拝をしながら物見遊山では本当に行って来ただけのことでしょう。道元禅師の「峰の色、谷谿(たに)の響きもみなながら 我釈迦牟尼の声と姿と」という歌にしても、「よく見れば なずな花咲く 垣根かな」(芭蕉)にしても、無情説法を聴くには天意なる仏意を受けとめようとする心がなければ感得できるものではない。自我いっぱいの概念では、しっかり見ているつもりでも自己の観念の域を出ることはないのです。
一方、こんなことをいう人もいます。「協調性を持たずに自分勝手にふるまうのは罪だと思うが、自我を殺して遠慮して主体性を持たず他者と接するほうが、もっと罪だと思う」と。 しかし、「仏道を習ふというは、自己を習ふなり。自己を習ふというは自己を忘るるなり」(現成公案)の「自己を忘るる」こととは自我の追求ではない。「自我の追求」を知識的に表現したい人は個性の発揮となるのでしょうが、出来事に「いい」か「イヤ」かの好き嫌いだけでは自我を発揮しているだけでしょう。降魔成道の「魔」とは自我のハタラキを象徴するものですから「自我・我見」のものさしでは仏性(ありのまま)が見えるはずがないのです。
人間らしく「どう生きるか」という人生指針について、釈尊は教え示されます。
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| ねじり花 |
他人(ひと)を誨(おし)うるがごとく
もしおのれに
行ぜしめなば
おのれ先ずよくととのえ
やがて他人をもととのえん
おのれをととのうる
げに難(かた)ければなり
(法句経・159)
「よくととのえし」とは、「平常心是道」をつかみ得た人のことですから、「おのれをととのえる」ということは容易いことではありません。
ギリシャ哲学の始祖といわれるタレスが「この世でもっとも困難なことは何でしょうか」と質問されました。タレスは「己を知ること」と答えたそうです。相手が続いて「この世でもっとも簡単なことはことは何でしょうか」と質問しますと、タレスは「人に忠告すること」と答えたそうです。
世間には「話し方教室」なるものは沢山ありますから、「聞き方」より「話し方」のほうが難しいように思ってしまいがちです。しかし、話すことは自分の思いを放出することで、聞くことは受け入れることですから簡単にできることではない。しっかり聞くことができて智慧が働いていればイライラしたり怒る必要もない。怒らないどころか人間関係の中で、気持ちをおだやかにさせたり、気分良くさせたりしながら自らが充実感を得ているものです。人間関係の中で感じるあらゆるいらだちや不快感というのは、自分が自分でまわりの調和を壊し自らが苦しんでいる心のあらわれです。
プライドとコンプレックスは心の裏表のようなもの。他人をさげすむのは、自分が人から馬鹿にされることを恐れている裏返し、高慢な態度をとることも裏返しで自分に自信がない。虚栄心の裏にはコンプレックスを覆い隠そうという思いが働くからです。 自我が働くほど傲慢になり、傲慢になればなるほど自分が見えなくなる。自分が見えるということは自分の煩悩や欠点が見えるということです。人格者と呼ばれる人達は、他者評価ではなく自己評価の中に生きています。彼らは、周りがいくら認めても自分が納得できるかどうかを大切にするから謙虚なのでしょう。会話するにも「お前は」「わたしが・・」ではなく、「あなた」というように相手をおもいやる。自信があるから相手の話に耳を傾け笑顔で対することができるのです。
「おのれをととのえる」と言うのは易いが、我が身を正すことは実に難しい。そこで、その心構えとして「他人(ひと)を誨(おし)うるがごとく」と示されるのでしょう。他人の事はよく見えるのですが、自分のことは批判や反省の対象にはしにくいものです。けれども、己自身を知らずして相手がわかろうはずはない。故に、自分の行為を他人の目で観るようにという教示があると思うのです。
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| ふるさと 差首鍋地区 後方は鳥海山 |
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