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五濁(ごじょく)の悪世という言葉があります。世相はまさにそんな様相を感じさせる報道がなされる。仏教で言う五濁とは、功濁(こうじょく)・見濁・衆生濁・煩悩濁・命濁(めいじょく)の五つのこと。功濁とは時代そのものが濁っているということ。たとい少数のものが自覚していてもどうにも抗しがたい時代の流れのようなものです。見濁とは人生観の混濁で利己的刹那的享楽的な人生観。衆生濁とは羞恥心の欠如で、人間的尊厳を忘れた醜悪濁。煩悩濁とはホンノ−がボンノウ−となっている混乱濁のこと。命濁とは、邪命ともいって人生生活手段の混濁。欲求を満たす為には詐欺も密輸も手段は選ばないという濁乱のことです。
「仏なんてあるわけない!」という邪見によって、濁乱なる世相の展開となってしまうのです。
経典に説かれる仏の三身という教えは、釈尊の悟りの内容である真理(法)そのものを法身仏とし、その法身の仏が私たちを目覚めさせようと願って働いてくるすがたを報身の仏といい、三世十方の諸仏とはつまり報身仏です。歴史上の釈尊を応身仏であると示しています。経文に「仏身は法界に充満し、あまねく一切群生の前に現ず」とあります。「悉有仏性」の仏教観からいえば宇宙そのものが「仏」、ありのままが仏(法身仏)の命です。その大宇宙(法そのものを身とするもの)を目の前にしても、五濁なる識見では「法身仏」を認識することはできません。
歴史上の釈尊を「応身仏」ともいうと先に示しましたが、釈尊は法の真理を啓示すべく「法身仏」の分身仏として人間の姿で真理を示されたと信じることが仏教徒の条件といえるでしょう。釈尊を『釈迦牟尼世尊』とお呼びします。「牟尼」とは「聖者」の意味、世尊とは人々の尊崇を受ける人のことです。悟りを開かれたお釈迦さまを「仏陀」と申します。仏陀とは「真理に目ざめた人」という意味です。仏陀とは「仏」のことです。つまり、お釈迦さまとは「法身仏、報身仏、応心仏」なのです。このことが信じられなければ「仏教徒」とはいえません。
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| 箱根 大涌谷 |
お釈迦様の時代にも「身体と霊魂は同一か別か」「死後はどうなってしまうのか」「世界は空間的に無限か有限か」「世界は時間は無限なのか有限なのか」というような、現代人でも聞きたがる形而上的、観念的疑問は当時の人々も共通のようですが、釈尊はそれらの観念的質問には一切答えられませんでした。経典にはこれを「無記答」(あるいは「捨置記」)と示されます。無記や捨置とは、いくら考えても解決しない問題にとらわれるのは迷いですから「ほっておけ」と教示されるのでしょう。釈尊は「いくら議論し合っても、だれもが納得する答えが得られない問題に悩むのではなく、現実に生きているこの人生の意味について考えよ。正しく生きる為の智慧の眼を養うがよい」と、その人その人に適した法を説かれておられるのです。
マールンクヤというお弟子が釈尊に尋ねました。
「お釈迦さま、この世の中は永遠に存在しますか?
なぜ人の生命に限りがあるのですか?
死んだあとも生きる世界がありますか?」
お釈迦さまほどのお方なら、ズバリお答えになられるはずだとマールンクヤは思いました。
するとお釈迦さまは、『 マールンクヤよ、ある者が毒矢を射られたとしよう。それを見たまわりの者たちは口々に「早く医者を呼べ」というのに、毒矢を射られた本人が「私に毒矢を射たのは王族か武士に違いない。その者はどこの生まれで何という名前か。この弓矢はどこでつくられたものか。この毒はどんな毒か。それがはっきりわかるまで矢を抜いてくれるな」と言っていたなら、この者はどうなるかね マールンクヤ
・・・ 』 と問いかけられました。
マールンクヤがすぐさま答えました。「すぐに毒矢を抜かねば死んでしまいます」 「その通りだ。汝が今、質問したような問題をなぜ私が今まで説かなかったかというと、これらの事柄はいくら議論してもだれもが納得する答は出ないからだ。そのような、解答が得られない問題に悩む時間があるなら、なぜ現実に生きているこの人生の意味について考えてみようとしないのか・・・。今、汝に必要なことは、世の中のことすべてを正しく見ることのできる眼(め)だ。正しい見方は智慧の眼によって生まれる。智慧の眼を養うがよい」と・・・
深くうなずく、弟子マールンクヤの姿が目に浮かぶようではありませんか。
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そうは示されても人間の脳とは 「宇宙は無限である。無限の向こうは無いということであるが、無限の向こうは何なんだろう。その創造主は誰だ。何故という概念もすべて存在のあとで出てくる。宇宙の前にあったものは何だ?無か?無ということも存在のあとで出てくる概念で、何もなければ無ということをいいだす人もなく、無という概念はない・・・ 俺はなぜ俺なのだ・・・」と無限の概念を求めます。物理学者のような専門家ならともかく、不可解な問いは、不可解(解くべからず)のままで、もう答えがそこにあるという見方は「仏さまの智慧」と思うのです。なぜなら「その課題は解けない」という答えを得たことにもなるからです。
ところが、このような見方は、「思想の停止である」と「我見」を押しつける輩がいます。
正しい思想のつもりでも、無心を頭で判断しようとするようなことは執着やとらわれというものでしょう。中道とは高慢にも卑下にも陥らないとらわれのない「行」のことです。話を進めます
ある人が、長沙の景岑禅師に「蚯蚓(みみず)を二つに切ってしまったが、二つになったミミズはピンピン動き回って両方に頭があるように見える。いったいミミズの本性はどっちであろうか」、と尋ねたというのです。 −− このことは、つまり、ミミズの話でもって「悉有仏性」の「仏性を」尋ねているわけです。すると禅師は、「妄想するな」 「けれども動いてますよ」 「まだ、肉体が分解していないだけだ」と。 仏教的立場からすれば、我々の成り立つ本性は無自性・空です。そして「悉有仏性」のこころとは天地が我と同根、万物が我と一体です。故に仏性は生の時だけあって、死の時にはないということでもない。道元禅師は「悉く仏性有り」ではなく、「悉有は仏性なり」と示されるところです。
修行道場では毎食の食事の際にお経をお唱えしますが、食事が終わったときには『処世界如虚空 如蓮華不著水 心清浄超於彼 稽首礼無上尊 (ししかいじきくん じれんかふじゃし− しんしんじんちょういひ きしゅりんぶじょうそん)』と唱えます。つまり、「みほとけはこの世に存在していても、虚空のように形を持たない。それ故に、蓮華の花が汚泥に汚されないようなものであって、その心故に彼岸に到る。そのような最上の御仏に対して頭を地につけて礼拝致します」と言う意味になります。
亦、別の教典には「仏身は法界に充満し、あまねく一切群生(いっさいぐんじょう)の前に現ず」とありますが、「悉有仏性」(しつうぶっしょう)の悉有とは、宇宙の全存在ということ、宇宙一杯の仏さまとこの自分とは別々のものではない。故に「如何なるか是仏」の問いに「牆壁瓦礫(しょうへきがりゃく)」つまり、壁土や瓦礫や土塊のようなものであっても仏性なることを示し、「如何なるか是れ心」に対しても」「牆壁瓦礫」という問答となるのです。我々の眼に見えるもの、耳に聞こえるもの、見えたり聞こえたりすること、すべて仏のはたらきであって牆壁瓦礫といえども例外はないのですが、峯々の色や谷川を流れる仏の音声、或いは仏の言が自己に響く為には、自己の内面にそれを受けるものがなければ霊性は開発しません。欲望と我執を引きずったままならば、いくら名声や財産があろうとも迷いの世界でしかない。理解に苦しむでしょうが、人間の理想郷というのは仏教では「天界」であり、六道の中の迷いの世界なのです。これに対して仏の国とは仏の悟りの世界です。それは、どこか天空の彼方にあるという世界を意味するのではなく、欲望と執着から解放されたところに感得される清浄な世界といってもよいでしょう。「仏の国」とは死後のことのように思われるでしょうが、仏国土とは、「今、ここ」を離れるものではないのです。仏の世界に生きながらこの「いのち」の尊さに気づかないならば、本能のままに生き、ただ息をひきとる犬猫と同様になってしまいます。
金子みすゞさんの「はちと神さま」と永平寺七十四世佐藤泰舜禅師のお言葉をご紹介しましょう
はちと神さま
はちはお花のなかに、
お花はお庭のなかに、
お庭は土べいのなかに、
土べいは町のなかに、
町は日本のなかに、
日本は世界のなかに、
世界は神さまのなかに、
そうして、そうして、神さまは、
小ちゃなはちのなかに |
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仏が有るか無いかなどと愚かな事を申してはなりませぬ。諸仏の体は三千世界に充ちています。仏の心は法界に行き渡つています。私共が合掌低頭する所には、必ずしも木仏画像の仏の相がなくとも、そこに必らず御仏が有るのです。拝む時に仏が現われるのです。
嶺に響く松の音、空に輝く星の影、天地万物が仏の相であり、一粒の御飯、一椀の汁も頂いて食べる時に、それが仏となるのです。三世の諸仏とは一切万物であるとも申されましよう。拝む心さえあれば、見る物、聞く物が皆仏であります。そこで切りつめて言えば拝む心が大切となります。拝む心が拝まれる仏となるのです。拝まれる仏が拝む心ともなるのです。これを感応道交(かんのうどうこう)と申します。
拝む私と、拝まれる仏とが、一つ心の中に合体して居るのです。そうして見る物聞く物を拝む心で眺める。宗教は私共の日常生活の中に生命を宿しているのです。拝まない人は宗教を談ずる資格がありませぬ。
南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。
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