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江戸時代の禅僧・盤珪禅師はある時、一人の男から「私は生まれつき短気で怒りっぽくて困っています。この短気を直したいのですが・・」と人生相談を受けた。すると禅師は「生まれつき短気というならいつでも持ち合わせておるはずじゃ。持ち合わせておるものならここに出しなされ。治して進ぜよう」と申された。すると男は「今は持ち合わせておりませぬ。何とぞしました時にひょいと出まする」。すると禅師は「しからば短気は生まれつきなどとは嘘をいってるではござらぬか。そなたが我が身のひいきゆえに、我が思惑を立てたがって、そなたが出しておいて、それを生まれつきというのは、難題を親にいいかくる大不幸の人というものでござる」とたしなめたそうです。
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| 猊鼻渓 岩手県 H16.10.31 |
「短気」を辞典で引くと、粘り強さがなく、すぐに怒ったりすること。気みじか。せっかち。 短気は損気−−短気を起こすと人との和をそこねて、結局は自分の損になる。とある。この「気」に関する項を引いてみると「才気・狂気・平気・勇気・短気・殺気・怒気・陽気・陰気・気概・気力・気分・気心・・・・」数え切れないほど沢山あるのに驚かされます。 この感情を大きく分けると「気分・気持ち・気心」ともいえるでしょうが、「気分」とは、身びいきなほとばしりが言動や表情に表れる、つかまえどころのない感情です。この「気分」の最たるものが「短気」です。ちょっとしたことで「頭にくる、悔しい、憎らしい、うるさい」といった感情をむき出しにするたぐいです。そば屋の出前が遅いといってはくってかかる、電車で足を踏んだとか踏まんとかいっては大声を出す。人が少しでも自分の思うようにならないとすぐにイライラする。しかし、それは相手に対してイライラしているようには見えるが、実は怒りの感情は自分が引き起こしたもの。自分が自分に満足できずにイライラしているのです。その怒りの根本とは・・・「貪・瞋・痴(正しい字は知というところが疑うです)」は三毒という煩悩の親玉です。
ちょっと注意されたされただけでも「ひどい」と根に持つ怒りは大変危険な毒です。ちょっと叱られただけで、相手を毛嫌いして鬱々しイライラする怒りは幸福になるエネルギーを無くすばかりか、自己破壊的な危険な毒となります。それを我慢すれば自分を偽ることになりますから、そのストレスは内に向かい、外に向かえば「私がこんなに我慢しているのに・・」という被害者意識で何かのきっかけで怒りの炎となります。
ピアノの音がうるさいと、隣人を殺してしまった事件がありました。夜中に大きな音をたてる方が悪いのですが、いつも我慢をしてカリカリしていたら不満はいっそうたまるだけです。我慢をしている心中には「いつか相手がわかってくれる」という期待があります。 けれども、相手は言われなければわからないこともある。そのうち「なんて鈍感で勝手な人だろう」「人の気も知らないで!」「バカにしてるんじゃないか」「自分はこんなに我慢しているのに」という怒りと憎しみが生まれる。そんな時、相手から神経を逆撫でされるようなきっかけで一気に燃え上がり抑えがきかなくなってしまうのです。自分の言い分を目を三角にして相手に認めさせようとすることは、正しいのは自分で間違っているのは相手ということですから、言えば言うほど相手の不愉快さは増します。逆に、脅えながら我慢をすればマイナス感情に囚われて脳も身体も自由に動けなくなってしまいます。
自分の思いとはなかなか相手に伝わらない場合が多いのですが、相手の気遣いが自分に伝わらないことはもっと多いものなのだと知るべきでしょう。「それでも・・我慢できない!」と腹を立てる。大切なことは、そんな自分自身の決着をどうするかです。
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| 猊鼻渓 岩手県 H16.10.31 |
お釈迦さまは、人間をだめにするのは三毒といって、貪りと瞋(目を三角にして怒ること)と痴であると戒められました。 三毒の貪欲とは、求めても求めても止まない欲望のことです。知足(足ることを知る)を知らずに求める欲望が毒となります。愚痴とは無明のことです。「痴」は、やまいだれの中に知という字を書きますからわかりやすい。しかし本来の痴という字は中に疑という字が入りますから、本来の愚痴という意味は妄想にとらわれ、道理を理解することができない「おばかさん」ということになります。瞋恚(しんい)とは目を尖らして恨むことです。その基は「私が正しい」という慢心ですから「間違っているのは相手だ」という考えしか浮かばない。その瞋恚の毒は長年積み上げた名声や地位さえもすべて灰にしてしまう強烈な毒と示されます。怒りや怨み心をもって発言することは、必ず悪い言葉を吐いて、自分自身を大きく害(そこ)ねるだけでなく他人をも害ねてしまいます。誓願とは相手を変えるのではなく自分を変える道です。相手をただすということではなく、自分自身を見つめ正(ただす)ことです。
他人が怒ったのを知って
それについて自ずから静かにしているならば
その人は、自分をも他人をも
大きな危険から守ることになる 《法句経》
「掃けば散り払えばまたも塵(ちり)積もる、庭の落ち葉も己(おの)が心も」という歌があります。人間は弱いものです。故に仏弟子はたえず懺悔を続けるのです。本山では毎月二回、「布薩」と云って懺悔式を行っています。煩悩は無尽と示されるが如く厄介なのはその根強さです。不可能にも近いほど根強いのですが解決の道が無いわけではありません。
お経に「一切の業障海は、皆妄想より生ず、もし人懺悔せんと欲せば、端座して実相を思え、衆罪は草露(そうろ)の如く、慧日能(よ)く消除す」とあります。煩悩は無智、無自覚を母体としますから「妄本無体」とも示されます。切っても切っても根の残るガンのようなものであるならば、いかなる外科手術も及びませんが、無体で根がないのであれば退治することはできるのです。「無智は慧日(えにち)の照らすところにはいたたまれず、草露の様に消え失せる」と示されます。自覚と無自覚(迷妄)とは表裏一体で、異なるものではありませんから、自覚があらわれれば迷妄はなくなります。これが「修行」の「功徳力」です。すぐに怒る人は、精神的にも肉体的にも徹底的に弱いのです。そして、その怒りの毒は相手だけでなく先ず自分自身が自分の毒で破滅的になります。妄想が妄想を生むとき猜疑心で人は生き方を間違え、やがて生きることに疲れ、食べても飲んでも何をしても楽しくないということになってしまいます。
そうとは心していても怒ってしまうこともあるでしょう。でも怒ってしまったら直ぐに笑ってしまえばいいのです。笑いと怒りは正反対の感情です。笑えばかなりの怒りもおさまります。怒りが出そうになったら、上記の法句経を思い出すようにする心がけは苦行でしょうが修行です。智慧ある苦行は幸せの基であり、修行は修業ではなく「修行」です。修業には卒業もありますが、「修行」は生き方ですから「行」に卒業はないのです。
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| 猊鼻渓 岩手県 |
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